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5.「幸福度 31~45歳」後編

こんにちは。モチベーションファーム/「幸せ感性力」コーチの藤井です。

「“幸せ感性力”の磨き方」の第5回目は前回から引き続き「幸福度 31~45歳」の後編をお届けします。

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32歳の僕は平野さんが経営する、神奈川進学研究会という家庭教師センターで働くことになりました。
当時は年商1億円くらいの会社でした。
そして平野さんは僕の入社と同時に、同じ事務所内にフルキャストという別会社を立ち上げました。1992年のことです。
その後2001年に店頭公開し、現在はフルキャストホールディングスとして東京証券取引所一部の上場企業となっています。
経営者の平野さんは卓越した経営能力があり、優れたリーダーシップを発揮して当初から事業を拡大していきました。
それに伴い僕も、神奈川進学研究会からフルキャストの子会社新規立ち上げやフルキャスト本体の企画に携わっていきました。

いつの間にか年月は過ぎて、39歳になっていました。
そしてその頃に、事業提案した企画が採用されてパチンコホールスタッフ専門の派遣会社を立ち上げることになりました。
いろいろな経緯から、僕が代表取締役社長を引き受けることが条件でした。
これは僕にとってチャンスでもあったので、最終的には引き受けることにしました。
そのような機会を与えてくださった、平野さんには今でもとても感謝しています。
ところが、それを追いかけるようにとんでもないことが起きました。

奥さんに癌が見つかったのです。子宮癌でした。
検査結果が判明したのは1999年のクリスマスの日でした。
ステージはすでに4の後期になっていたと思います。年明けにすぐに手術をし子宮を全摘出しました。
その後、退院をしましたが彼女は仕事も辞め、自宅での療養となりました。
しかし僕は、新会社の立ち上げをする立場で、その準備をしていました。社長とは言え、実際は当初一人会社のようなものなので、何もかも僕がやるような感じでした。
この時期、僕は妻が癌であるという現実と向き合うのがとても怖かった。意識を仕事に向けるようにしていたように思います。正直なところ、あの時期はもっと一緒に居て寄り添っていたら良かったと、今でも後悔をしています。
そして新会社、アミューズキャストを2000年11月に立ち上げます。ある事情により、親会社はフルキャストではなくなりました。(事情が複雑なので詳細は省きます)
代表の僕は、一旦フルキャストを離れる形になりました。
営業的支援はまったくないまま、ゼロからのスタートでした。
それでも幸いに12月からは売り上げが立つようになり、まずまずのスタートができました。
ところが時期を同じくして、妻の癌が再発しました。
そして年明けに入院しました。
営業、経理に社員は一人ずついましたが、会社で人材派遣の実務を行うのは僕でした。
このころは、さまざまな想定外のことにぶつかりながらノウハウを確立している時期でしたので、最終責任者の僕が主導することが必要だったのです。
朝6時くらいから派遣スタッフに対してモーニングコールなども行っていたので、この頃はほとんど会社に泊まり込んで仕事をしていました。
朝から18時まで事務所で仕事をし、1時間かけて病院に行き、5分間ほど妻の顔を見て、また1時間かけて会社に戻って仕事をしていました。この時期が、僕の人生で一番キツかったかもしれません。
妻を一人にしておくことが心苦しかったです。辛い思いをさせたこともたくさんあると思います。
こんなことが3か月ほど続きました。そして設立から5か月目くらいには月間の売上が900万円ほどになり、会社経営のめどが立ってきました。この時期、僕に協力して支えてくれた大木さん、青木さんには感謝しかありません。
この時分には、業務ノウハウもだいぶ確立されたので、社員を増やし業務も引き継ぐことができました。やっと仕事から離れられる状態ができました。
妻について医者からは2月ぐらいに余命3ヵ月と伝えられていたので、4月の終わりに社長を辞任して一旦休職することにしました。
それからは毎日妻と一緒に過ごすことになります。しかしその時分には常時モルヒネで痛みを止めていたので、妻の意識が明快だったかどうかは疑わしいです。それに妻は、一日のほとんどを眠って過ごしていました。だけど僕は奇跡を信じ、全快することを念じ続けていました。
5月には検査数値がかなり改善し、医者も原因が分からないというほどでした。
一時は外出許可がもらえるくらいまで回復しました。
しかし7月20日、彼女は息を引き取りました。
真夏の暑い日だったと記憶しています。
前日の19日、彼女の車いすを押しながら病院内を散歩しました。その時の会話は今でも思い出します。お互いに死が近いことを悟っていたのでしょう。それまでになく深い話をしました。その時ばかりは、彼女もモルヒネの影響を感じさせずに明晰でした。
それから2か月ほどは、呆然として過ごしていました。仕事に復帰する気にもなりませんでした。病気が判明してからの2年弱の間を、これでよかったのかと何度も自問しました。たくさんの後悔がありました。

そんな中、片腕的存在であった大木さんが僕を訪ねてくれて「そろそろ社に戻ってください」と伝えてくれました。
それをきっかけに仕事に復帰をしました。

復帰した時は月商2000万円程度になっていました。そして翌年の春からは月商4000万円程度まで伸び、その後安定しました。
社長は降りていましたが、以前と同じ立場で仕事をすることになり、それからの数年間は「良い会社にしたい」と思いながら経営をしていました。
そして紆余曲折ありながら、2004年10月にフルキャストがアミューズキャストの全株式を取得し、僕はフルキャストのグループに戻りました。
それから2年して、僕は再び代表取締役に就任することになります。

一時は年商6億円まで伸びましたが、僕が45歳の時分は売り上げが4億円、経常利益が1600万円程度の会社でした。経営は安定し利益もコンスタントに出る会社になっていました。
僕にとっては人生における最高の時期でした。
理想的とは言えないまでも、収入も社会的地位も人生で最高のレベルでした。「やっと人並みになれた。ここからだ!」という思いでした。

そんなわけで「幸福度」は以下のようになります。
数値が全体的にかなり上がっています。

20 「人生満足尺度」(35点満点)
22 「やってみよう!因子」(28点満点)
16 「ありがとう!因子」(28点満点)
18 「どうにかなる!因子」(28点満点)
17 「ありのままに!因子」(28点満点)

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