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4.「幸福度 31~45歳」(前編)

こんにちは。モチベーションファーム/「幸せ感性力」コーチの藤井です。

「“幸せ感性力”の磨き方」の第4回目は「幸福度 31~45歳」(前編)というテーマでお届けします。

以前ご紹介した僕の「幸せ度」の指標は以下の通りです。

①15歳頃の僕  5・16・14・11・ 9
②30歳頃の僕  8・12・13・10・10
③45歳頃の僕 20・22・16・18・17
④現在(60歳)29・24・26・24・25

数値は左からエド・ディーナー「人生満足尺度」(35点満点)、前野教授による「やってみよう!因子」「ありがとう!因子」「どうにかなる!因子」「ありのままに!因子」(各28点満点)です。

今日は、その後の人生に大きく影響した31歳~32歳頃についてお話しします。

30歳あたりで、その時にやっていた仕事が嫌で嫌でどうにもならず、退職することになります。鬱っぽい状態にもなっていたのではないかと思います。
出世と収入だけが目的で、劣等感を否定するために自分に鞭打ちながらやっていた仕事だったので、やっと解放された!と思える状態でした。
そして、初めて独立して仕事を始めようとします。
しかし、僕には何か特別な知識や技術があるわけではありません。
18歳~30歳で身に着けた事と言えば、事務作業能力と営業力くらいのものでした。今思うと、その営業力も一流の世界では全く通用しない偽物だったと思います。
そして結婚もしていない30歳そこそこの若造が始めたのは「結婚相談所」でした。資本金が小さく始められることと、営業力でなんとかなると思ったからです。
しかし、甘くありません。
3ヵ月、6ヵ月と経っても、まったく芽が出ません。売り上げが立たないのです。
1990年頃ですから、携帯電話の個人普及率が0.6%、インターネットはまだまだ一般的ではない時代です。
営業活動は、チラシをポスティングして事務所(ワンルームの自宅)で電話を待つというものでした。(この時期は、時間はたっぷりあったのでワープロでキーボードのブラインドタッチを覚えました。この時期、ほぼ唯一の収穫です)
そしてどうにもならずに32歳の時にシナジー・スペース(後に僕が50歳で就職する会社です)主催のリーダーシップ(人間力)研修に参加します。
ここで「自分が源泉」に出会います。
「自分が源泉」は「すべての結果は自分が創った!…という立場をとること」です。そして「自分が創った結果なら、自分が創り変えることができる」。
僕はそれまで「自分は不幸だ」と決めつけて生きていました。
そして「人生の犠牲者」「父母の犠牲者」というフレームで世界(世の中)と接していました。実際、それまでの人生で「幸せだ」と感じたり「楽しい」と感じた経験はほとんどありませんでしたから。
父母に力や能力がないから実家は貧乏で、僕は大学に行かせてもらえなかった。学歴がない、お金がない、人脈もない。だから仕事も選べず、彼女もできず不幸なんだ。
そんな風に考えて毎日を生きていました。
だから10年近く、実家には帰ることなく、電話もほとんどしないという父母との関係性でした。
しかしその研修の中で僕は「そうではない!」という気づきを得ました。
少なくとも「高校までは出してくれた」「三度三度のご飯は食べられた」「平屋の借家でお風呂の無い家だったけど雨露は凌ぐことができた」。
そういった、それまでは当たり前に捉えていたことが、そうではないことに気づいたのです。
父がその時の僕の歳には、7歳と4歳の男の子ふたりを商売をしながら育てていた。母親は商売を手伝いながら家事をすべてやって子育てしていた。
僕を必死に育ててくれた父母がいたことに気づいたのです。
それがどれだけ大変なことかを、僕は32歳でやっと理解することができました。
父母に対する感謝が溢れました。
そしてそれまでの「不幸な人生」は「自分が源泉」で創っていたことを受け入れました。
そうすると「自分が創った結果なら、自分が創り変えることができる」と捉えることができるようでした。
またこの研修の3日間で、僕は彼女を見つけました。
「彼女ができないという結果を『自分が源泉』で創っている。ならば『自分が源泉』で創ればいい」。
彼女は僕にとっては理想的な人です。
外見も内面も美しく。税理士として立派な仕事をしていました。
そして結局、それから6か月後に彼女と結婚式を挙げました。
とは言え、結婚のためにはクリアしなくてはならない課題がありました。
その時の僕は、ほぼプータロウだったからです。
彼女はそれでも良いと言うでしょうが、お父さん(お母さんはすでに亡くなられていました)が許さないと思いました。
そこで以前から一緒に仕事をしようと誘ってくれていた、平野さんに相談して会社に入らせてもらいました。
(平野さんは、のちに会社を上場させるほどの優秀なビジネスマンであり優秀な経営者でした)
それで結婚できる状態にはなんとかなりました。

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次回につづく

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