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「傍観者はいじめっ子と同じです!」は正しいか

いや正しくないです(終)

今回は、現代日本でよく言われる「いじめを止めない子もいじめっ子と同罪」理論について考察してみましょう。

誰が言い出したのか

ここで一つ、疑問が浮かびました。
「傍観者もいじめっ子と同罪」とは一体誰が最初に言い出したのでしょうか?

少なくとも皆さんも小中学生時代には聞いたことがあるはずです。
「テレビで聞いた」
「教師が言ってた」
など、いつ誰から聞いたかを覚えている人もいることでしょう。
ですが、はじめの提唱者が誰で、どのように教育界に持ち込まれたのかは一部の専門家が知るのみです。

なので、今わかっている部分から進めていきます。
存在としての「傍観者」をハッキリ定義したのは社会学者森田洋司です。

いじめ研究者の森田洋司は、いじめについて考えるための基礎的な枠組みとして、「いじめの四層構造論」を唱えました。これはつまり、いじめには常に、「いじめっ子」「いじめられっ子」「観衆」(周りではやし立てる者)「傍観者」(見て見ぬふりする者)が関わっているという見方です。
「ストップいじめ!ナビ」より



この「いじめの四層構造論」は1980年代に提唱されました。
問題点を指摘する声は近年多く出ています。
教師や親の存在を省いたまま、知識として四層構造論が人口に膾炙している、とか、四層構造論における「観衆」や「傍観者」の立ち位置は現実に即していない、などです。

一例

「いじめの四層構造」を描いたのは誰か
-いじめにおける教師の位置に関する考察-
(社会臨床雑誌 第26巻第3号)

犯人は教師たち

上のpdfファイル(山岸竜治准教授寄稿)では、さらに踏み込んで、「四層構造論」の元ネタは「安全圏から教師が見たいじめの構図」であると喝破しています。
ほぼ同時期に「教師が加担するいじめ事件」が発生している事、にもかかわらず教師不在の「四層構造論」が普及していく様から、それがいかに教師たちにとって都合のいい構図であったことか。
学校という場に限れば、いじめの責任は教師が最も重く負うべきで、次いで実行犯としての罪を非行少年が負うことになります。
ですが教師不在の「四層構造論」を広め、さらに「周りで見てる子も悪いんだよ」と指導すれば、教師の罪は児童・生徒から見えなくなります。

傍観者は悪くないのか

上で挙げた「そもそも教師の責任逃れで『傍観者』という概念が生まれた」ことは一旦横に置いておきます。
その上で、では現状で
・傍観は善悪で言う悪なのか
・傍観はいじめに加担する行為なのか
・傍観者はメリットを享受しているか
・傍観者は加害者か被害者か

を考えてみましょう。

まず、傍観という行為が善悪のどちらであるのか。
これはどちらでもない、が正解だと僕は考えます。なぜなら、誰かに暴力を振るったわけではなく、それをそそのかしたわけでもないからです。また、暴力に対抗することもしていないので、善悪に分けることは相応しくありません。

ではよく言われる、傍観者はいじめに加担している、という言葉の真偽です。こちらはどうでしょう?
これは法律上の暴力行為に関する扱いと較べるべきです。何故か? 児童に(卑劣にも)責任を負わせる以上、お天道様が見ている流の道徳を説くのではなく、しっかり大人と同じ責任論を根拠にするべきだからです。
そうすると、傷害事件が発生した際に、周囲の傍観者が罪に問われるかどうか、という話になるわけです。
目の前で酔っ払いが駅員を殴りました、そばでただ立って見ていたあなたも同罪です、そんな馬鹿な話がありますか?
暴力を止めたら英雄視されることと、それを推奨するかどうかは別問題なのです。

次に、傍観者は口出しをしないことでメリットを享受しているか
これはイエス……に見えます。ですがそれは「いじめに口出しをすることで自分が暴力に晒される」という異常な状況下であり、その状況を放置する大人の罪なので、それを差し引かないといけません。
火事から逃げたら命が助かりますが、それをメリットとは言わないでしょう。
なので、傍観者にメリットなど最初から存在しないのです。

最後に傍観者は加害者側と被害者側のどちらの勢力に属するか
これは主観によります。
いじめ被害者から見ると、傍観者は加害者側勢力に見えるのです。
しかしながら、傍観者はいじめから逃れるために口出しを避けているので、明らかに加害者の脅威に晒されているのです。傍観者の主観では被害者側に属していることになります。
皆さん思い出してください。
いじめられっ子がいなくなったら、つぎのいじめターゲットはどこから現れますか? 傍観者であった児童の誰かが被害者になっていませんでしたか?
というわけで、相対的に見て、傍観者は被害者側勢力に属していると見るのが正しいのです。
実は加害者側の勢力というのは児童の中には存在せず、加害者個人(または複数)がいるだけです。加害者側勢力といえるのは教師や保護者です。なぜなら責任者だからです。

結論

ここまでの文章はすべて「傍観者はいじめ加害者ではない」という理屈を説明するために書いてきました。
ですが、そうでない考え方もできるのはご存知と思います。
それが「道徳」です。皆の努力で暴力をなくそう、ということになっています。それが「集団としての道徳」です。
もちろん「個人としての道徳」ではそもそも暴力はよくないことになっていますね。
そう、立場によってそれぞれの道徳があるのです。ですから、教師の道徳、親の道徳、強い者の道徳で弱い者を縛ってはならないのです。

いじめという、継続的に暴力または暴力的行為が行われている場において「傍観者」という概念を誰かに当てはめることそのものがいじめに加担する行為だと僕は思っています。その理由は上で説明した通り、教師が責任を逃れるために「いじめの四層構造」を作り上げ、そこで生まれた概念だからです。

学校などで人権を軽視した道徳律を流布し、権威によって従わせる構造があったら気をつけてください。
それはカルトだからです。そう、巷を賑わす新興宗教やブラック企業と同じ、あのカルトです。

今月も皆様のサポートのおかげで生活保護申請せずにすみました。心より御礼申し上げます。