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善いものを疑え

「善いものを疑え」

こう書くと、おおむね感想はふたつに別れるだろう。
・そんなことはわかってる
・それって悪いことじゃないの?

「善とされるもの」を疑うことに対して、抵抗があるのは正しい反応だと思う。というか社会が「こうすべし」と決めた道を選ばないことは、それ自体が社会に対する反逆とみなされるからだ。つまり善を選ばないものは悪なのだ。

だけどまず、歴史的に善悪は変化してきたし、地域や民族・宗教によっても違いが残っている。
たとえば神は一人しかいないか? 無数にいるのか?
肌の色によって能力に違いがあるか?
資本主義が正しいか? 共産主義が正しいか?
死刑は必要か?
親殺しは他人殺しより罪が重いか?
差別思想を持つことが罪か? 口にしたら罪か? 実行したら罪か?
貧者による窃盗は罪が軽いか?
心神耗弱者の犯罪は刑を軽くするべきか?
数千年かけても人類は善悪を定めきれないし、これから人類が滅ぶまでに解決するとも思えない。

さらに、自由が善とされた結果、人々は善悪を勝手に主張しはじめた。今も新たな善悪が生まれ続けている。
富は優れたもののところに集まるべきだという。
富の再分配は義務だという。
弱いものはいじめにあう。
駅員はオッサンに怒鳴りつけられる。
男女の性差は生まれつきではないという。
羊の毛を刈るのはかわいそう。
水にありがとうと声をかけると綺麗になる。
お客様は神様。
肉を食べない方が健康的。
持続可能な開発目標。
アメリカは悪、日本は悪、中国は悪、イスラムは悪、イタリア人はバカ、朝鮮人は卑怯、黒人の犯罪が多いのはデマ、男は全員痴漢、etc.

善悪の基準が新しくもうけられることで、その分野においては議論も進むだろうけど、思考停止を誘うことにもなる。
というかそもそも、善悪は支配層が被支配層に課す庇護条件のようなものだ。思考停止してもらわないと困るんだ。やってることはマナー講師みたいだけど、レベルが違うよね。
そして民衆から提起された新たな善悪基準が世に通じるものになったならば、それは提起した人々が支配層に移ってきたということだ。だから、そもそも善意から生じたものだとは信じない方がいい。

もうひとつの問題は、判断基準の移り変わりや曖昧さに加えて、善を押しつけられる側の意志不在だ。
ほとんどの場合、自分の都合を聞いてもらう機会はない。
たとえば白人の受験生がいたとして、黒人の学生を増やしたいので白人の合格点を上げて足切りしますといわれたら納得できるだろうか? 納得しないと声をあげたらレイシスト呼ばわりされる。でも我々はそれが平等のために正しいようなイメージを抱いてしまう。
金持ちが多くの税を課されるのは本人が望んだからだろうか? 義務だからだ。だが税をケチる金持ちに我々は好感を持つだろうか?

善悪があって、善とされるものは多くの権利を得るし、悪とされるものは権利を奪われる。
当然、誰もが我こそは善なりと主張する。
マルチ商法だって自分が正しい理由を並べ立てるのは得意だ。寸借詐欺も「被害者だって人助けしたつもりになっていい気分だろう」という。
誰だって善の側に立ちたい。我こそは悪の実行者なりと名乗るのは中二病患者だけだ。今ギクッとした人、あとでカウンセリングルームまできてください。
善いものを疑えというのは「善とされるもの」を疑えということだ。
必要なのは、誰かがあなたに「これは善です」と示したものを善として受け入れる前に保留状態に置く、というアクションだ。理系研究者が実験で自論を裏付ける結果が出た時、即座に無条件でそれを採用することがないのと同じだ。

「ルールを疑え」「常識を疑え」は難なくできるけど「善なるものを疑え」は難しい。でも、身の回りの危険を排除する意味でも意識しておきたい。

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