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結果を見ないで人を見る

中1息子は専ら定期考査の勉強中だ。
勉強は得意は方ではない。

日々の積み重ねは大事だろうと
あの手この手で彼の勉強を応援している。

よく、優秀な人が「親から一度も勉強しなさいと言われたことはない。」
というのを聞くけれど、やらない子に同じ事をやってしまうと悲劇しか生まない。

親ができることは、勉強のスケジュールを共に立てること
質問があれば答えること
ご飯を作ること。
このくらいしかない。

本人が頑張る以外には道はないのだ。

4月に入学してから3ヶ月、彼の事を観察してきた。
インプットしたものはアウトプットする前に蒸発しているんじゃないかと
思うほど結果が伴わない。
結果がどうであれ、彼は毎日机に向かい続けている。

「結果がどうであれ」私はこの言葉を手放せないでいた。

こんなにもやっているのに、と怒りさえ湧いてきた。
こんなにもの主語はきっと
「こんなにも一生懸命伴走しているのに・・・!」
一生懸命をやっている私だった。

結果を手放せたのはふとしたきっかけだった。
「なぜ?なぜ?」に振り回されていたとき、
塾の先生からこんなことを言われた。
「100点や90点を目指すと辛いものがあるかもしれないけれど、
少なくとも30点を取ったりする勉強の仕方じゃない。30が50になるだけでもそれはできたという事です。」

あぁ、そうだな。
できるのハードルをオリンピックくらいに掲げて
「まだまだこんなもんじゃ足りない」と無意識に思っていた。

このくらいのできるでも今はいいんだと結果を手放せた時、
彼のこの数ヶ月の日々のできたが見えてきて、オセロがひっくり返るように
見え方が変わって行った。

毎日机に向かっていた事実。
彼はできない人じゃなくて、結果が出なくても努力し続けることができる人だった。

友達の誘いにも自分の今を大切にして断れる人だった。

弱音を吐かない人だった。

最悪の結果であっても、その中から良いイメージを捉えられるひとだった。

彼のそんな側面が見えてきた時、結果を出すことよりももっと
長い目でみて価値ある時間を彼は過ごしていると心から彼の事を尊敬することができるようになった。

本当すごいよ。
「結果じゃなく、人を見る」

これからもやることは変わらないし、勉強しよう!と言い続けるけれど
彼にかける言葉の奥には絶対的に彼を信頼する気持ちの根が
どっしりと深く伸びている。



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