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武士=武闘派ヤクザで信長・秀吉・家康を解釈してみる[訂正版]

言い方に配慮しない日本史 近世編

 今回は織田信長以降の話を、中世の
武士=武闘派ヤクザ論とからめて、
やってみようと思います。

1.織田信長

 いくつかの伝説化している逸話について
取り上げて、そこから考えてみようと
思います。

・「うつけ」伝説を考える

 「うつけ」と呼んだのは誰でしょう?
それは、同じ武士(地付きの武闘派)では
ないかと思われます。つまり信長は、彼らの
仲間意識を生む何かを、当たり前のことと
受け入れてなかった、ということです。
飛び道具や長槍を揃えたという逸話が示す
ように、彼は武闘派が重視した個人の武勇や
仲間内の紐帯をそこまで重要なものと
思わなかった、というのが、「うつけ」
伝説を生んだものと推測されます。
 要するに、強いヤツなんか遠距離で
しとめたり、水や食料を絶ったり、後ろから
襲い掛かればいいんじゃね? と考える
ような人だったのでしょう。
 これは、穀倉地帯でもあると同時に内海・
河川流通も盛んだった尾張という土地で、
様々な人を見られたからと、彼の家自体も
分家の分家程度からの成り上がりだった
から、というのが大きかったように
思われます。

・桶狭間伝説を考える

 武闘派論と絡むのは、兵力差に関して
です。前項とも関連しますが、「武闘派が
数に入れてない兵」が織田方にはあったの
ではないかと、私は疑ってます。
 国力としては高い尾張ですが、地付きの
武闘派は本領安堵による寝返りや、
三河側が戦場で伊勢側の人達は危機意識が
低かったりうまみが少なくて非協力的
だったりであまり動員できなかった、
というのがあの兵力差で、それを地付きでも
武闘派でもない者を動員して補ったのでは
ないかと。もちろん、仮説ですけど。
 ちなみに事実と違う迂回奇襲ということに
なったのはなぜか、ということに関しては、
第一陣ではなく第二陣に攻撃したかたちに
なったことで、「結果として奇襲したかの
ようになった」という結果論からできた
ものと推測されます。しかも総大将を
討ち取れてしまい、その後の歴史の中心に
なった人のことですから、結果からの類推で
「最初からそれを狙っていたのだ」とか、
盛られ放題盛られてしまったのでしょう。

・長篠鉄炮伝説を考える

 戦略的に勝って当然くらいに整えてから
開戦したのに、なんであんなに鉄炮ばかり
注目されてきたのでしょうか?
 武闘派論として考えられるのは、
「名だたる武闘派が手も足も出ずに
やられてしまったこと」が衝撃的だったの
ではないか、ということです。
 有名な武闘派は、散々暴れた上で自害した
とか、矢を大量に射られて立往生したとか、
「負けてなお強し」という話を残して
戦死するもの、というのが当時の武闘派の
固定観念だったのではないでしょうか。
しかし、長篠で、そういう要素を一つも
残せないやられ方がある、ということが
示されてしまいました。このことが、
「長篠=鉄炮」として長く語り草になった
要因なのではないかと思われます。

 このように様々な事績をみていくと、
信長は、「地付き」「武闘派」などの
伝統的な武士観が、すでに武士の定義に
なっていないことに想い到ってしまった人
なのではないかという感じがしてきます。
そして、それを再定義しようとしたのでは
ないかと。彼の考えた武士の定義は、
「武士の世界=暴力の世界に踏み込んできた
者は全て武士とみなす」
 だから、明らかに伝統的な武士階級の
出身でない滝川一益や羽柴秀吉などでも
武士として扱い、一向一揆や比叡山のように
女子どもや僧侶などがその世界に踏み込んで
きても、やはり武士とみなして対処したの
ではないかと思われます。
 信長からすれば、都合が悪くなったら
非戦闘員になって、非道呼ばわりしてくる
彼らの方こそが、ずるい人たちに思えて
いたのではないでしょうか。

2.豊臣秀吉

 秀吉は、明らかに地付きでも武闘派でも
ない出自で、しかも信長と同じ尾張人です。
武士の世界で成り上がろうとして、それを
達成しましたが、信長と同様に、個人の
武勇や仲間内の紐帯を重視するような
伝統的な武闘派の価値観とは、距離をおいた
人だったと思われます。賤民育ちだった
可能性も高く、伝統的な武闘派からは
蔑視されたことでしょう。
 その育ちから運輸・土木に従事する人達に
コネでもできたのでしょうか、墨俣一夜城
伝説、鳥取城、備中高松城など、それを
活かしたような戦功・逸話が目立ちます。
中国大返しだって、単純に駆けただけでは
なかったのかもしれません。

 秀吉は、武闘派(武士)とインテリ(貴族)
という、伝統的な支配層の仲間意識の外の
人です。その意味で、日本史上唯一人、
支配層以外から出現した支配者と言えます。
さしづめ経済ヤクザ(武士の世界で成り
上がったため、ヤクザなのは変わらない)
でしょうか。

 戦略的要件を重視した秀吉は、そのことに
よって天下人になりました。敵にも味方にも
多くの死者を出してでも、戦って勝つことを
至上とする武闘派からすれば、戦わずに
勝てる、あるいは戦えば必ず勝てる状況を
整えて、戦い続けながらも戦力が減らない
ばかりか増えてさえいく秀吉は、異質で、
不気味で、しかもとても敵わない存在に
見えたことでしょう。

 しかし、天下を統一した秀吉は、難問に
直面してしまいました。大量の武闘派が
余った上、長年の戦争特需が終わって
経済が縮小へ転じてしまったのです。
戦国バブルの崩壊です。
 経済の方は、復興や公共事業や消費や
バラまきなど、できることもありましたが、
人員の方はつぶしのきかない武闘派なので
どうにもなりません。それで結局戦争を
するしかなかった、というのが朝鮮へ攻めた
理由なのではないかと思われます。勝って
領地が増えるならそれでも良いし、負けて
武闘派をリストラできるならそれでも良い、
とでも考えたのではないでしょうか。
それなら政権内で官僚派と武闘派が対立する
のはむしろ当然のことと言えます。
 武闘派出身でない経済人の秀吉は、
戦国の世が終わったら武士なんて不要
なんだから転職しろよ、とでも思っていた
かもしれませんね。

 武闘派の出でない、経済ヤクザの秀吉は、
対朝廷の点では非常にユニークです。
 武闘派の長である将軍の地位は目指さず
(目指せず?)、インテリヤクザ(貴族)の
地位を駆け上ります。
 天皇を脅かすようなこともしていません。
この辺は網野善彦さんの言うところの、
非農業民的な要素が秀吉自身にあったから
ではないかと思われます。

3.徳川家康

 尾張人の前二者と違い、「敵に向かって
倒れて戦死することを尊ぶ」三河人の
家康は、ガチガチの武闘派です。
本郷和人さん(*)によれば、建築に関する
センスなどでは、あまり見るべきところの
ない人だったようです。現代風に言うなら
体育会系の権化で、「デカい=強い=偉い」
みたいな考えの人だったのではないかと
思われます。

 秀吉による変化が急過ぎて、いきなり失職
しそうだった武闘派を自分の元に集約する
ことで、天下人になりました。その手法は
いたって単純で、武闘派集団・松平組を
国内最大最強にした上で、他の組を傘下に
入れただけです。
 しかも、武闘派を受け入れたようでいて、
実は関が原や大坂の陣、幕府統制のための
改易などで、大量リストラ(戦死・失職)した
上に、生き残りは官僚へ転身することに
なっています。結局のところ秀吉のやろうと
したことと同じで、違うのは時間がかかった
ことだけだったりするのです。戦国の世の
終わらせ方なんて、そんなにたくさんある
ものではないのでしょう。

 そんな武闘派の家康ですが、弱小勢力で
生き延びるために必要に迫られたのか、
知識欲は非常に旺盛だったようです。
推測ですが、近隣の上位者だった今川、
武田、織田、豊臣から、戦術、領国運営、
戦略、政略など、盗めるものは盗めるだけ
盗んだようです。『吾妻鏡』の読者でも
あり、過去の事績なども学びました。
先例とか模倣とか知識とかを大事にする、
勉強家で保守的な親分、というイメージが
浮かび上がってきます。
 そういうところから考えると、後世
言われているような、古狸とか陰謀家、
謀略家みたいな話の多くは、結果天下を
取ったところから作られたお話のような
気がします。基本的には武闘派ですから、
自家の存続や拡大を第一に据えて、
その時々の判断や選択をしてきただけで、
天下人になれたのはただの結果だったの
ではないかと思われます。

4.江戸幕府

 江戸幕府は当初、「広域武闘派組織・
徳川組」として始まりました。しかし、
暴力の必要がなくなり、武闘派組織は
インテリ組織へと変質していきます。
この辺は古代から中世にかけて、豪族が
都に集まって貴族化し、中央から統制する
ようになったのと、大まかには同じです。
違いは、貴族が地元と離れて生じたような
乖離が少なかったことと、地方もすでに
生産力や人口を増やす余地が少なく、
たとえ不平があっても、中世の武士のように
それを引き受けるような新興の勢力を
生み出せなくなっていたことです。
 そのため、比較的流動性の少ない、
安定した社会ができました。将軍も二代目は
インテリ官僚みたいな人で、この移行には
都合が良かったのではないでしょうか。
ただしこの社会は、人口増を不況や飢饉で
抑えつけることによって維持される、
という裏面も伴っていたものだったと
考えられます。

 「生類憐みの令」は、後世まで悪名を
轟かせていますが、武闘派からインテリへ
移行する役割を負ったもの、という考え方も
できるかもしれません。暴力を排除する
考えの、極端な形での現れということです。
 個人的には、古代の「憲法十七条」以来
ことあるごとに繰り返されてきた、
「すぐ暴力に訴えるの禁止令」または
「斬った張った禁止令」のようなものと
捉えています。暴力で解決する考えは、
そのくらい蔓延りやすいのではないかと
思われます。
 事実、この後でも、外圧により再び
武力が必要になったことをきっかけに
内戦が起こりますが、その後にはやはり
話し合いで解決しましょうという御誓文
(五箇条の御誓文)が出ています。
 「暴力か、話し合いか、」というのは、
ヒトの歴史に欠かせない要素の一つと
言えるのではないでしょうか。暴力を
選択してしまった(してしまう?)ことが
大変多いのが、大変残念なのですが。

 というわけで、武闘派としての武士は
ここでいなくなります。この後幕末に復活
しますし、その影響は現代にまで及んで
いますが、それはまた別の話ということで。

*(3.徳川家康の項目)
「井上章一さん」と書いてあったのは、
「本郷和人さん」の誤りでしたため、
訂正しました。申し訳ありませんでした。
(2023年3月13日)

主な参考文献

『謎解き中世史』 今谷明著 洋泉社 1997

『織豊興亡史』 早瀬晴夫著
今日の話題社 2001

『信長の戦争』 藤本正行著 講談社 2003

『秀吉の天下統一戦争』 小和田哲男著
吉川弘文館 2006

『信長とは何か』 小島道裕著 講談社 2006

『人物で読む日本中世史』 本郷和人著
講談社 2006

『秀吉神話をくつがえす』 藤田達生著
講談社 2007

『消された秀吉の真実』
山本博文、堀新、曽根勇二編 柏書房 2011

『河原ノ者・非人・秀吉』 服部英雄著
山川出版社 2012

『偽りの秀吉像を打ち壊す』
山本博文、堀新、曽根勇二編 柏書房 2013

『秀吉の出自と出世伝説』 渡邊大門著
洋泉社 2013

『秀吉研究の最前線」
日本史史料研究会著 洋泉社 2015

『日本史真髄』 井沢元彦著 小学館 2018

『日本史のミカタ』 井上章一、本郷和人著
祥伝社 2018

『軍事の日本史』 本郷和人著
朝日新聞出版 2018

『日本中世への招待』 呉座勇一著
朝日新聞出版 2020

『日本史ひと模様』 本郷和人著
日経BP日本経済新聞出版本部 2020

『日本史の定説を疑う』
本郷和人、井沢元彦著 宝島社 2020

『歴史のIF』 本郷和人著 扶桑社 2020

『「違和感」の日本史』 本郷和人著
産経新聞出版 2021

『「失敗」の日本史』 本郷和人著
中央公論新社 2021

 次回は経済の方のシリーズです。
資本主義について考えた後なので、
「マルクスを読まずに共産主義を考える」
といった感じのをやろうと思います。

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