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「みんなちがって みんないい」から卒業しよう

「みんなちがって みんないい」

金子みすゞさんの『私と小鳥と鈴と』という詩の最後の1行です。

この詩を初めて知ったのは、松たか子さんが主演されたドラマでした。
(2001年 TBS創立50周年記念番組とのこと)

ドラマ見てた時は素敵だし、そういう目線で物事が見れるってすごいな〜と感じていました。

けれど、近頃、占星術界隈で地の時代が終わり、風の時代が取り沙汰され、個への意識が高まるにつれ、この最後の一文だけ、目にすることが増えました。

なんかそれにすごーく、ずっと、なんとな〜く違和感を感じていました。
違和感の正体もよくわからないのだけど。
感じていました。

でも、とある方の記事を拝見して、その違和感の端を掴んだような気がしたので、
慌ててここにメモっています。

どうも近頃の使われ方って、“自“と“他“の差別化を意識する時に使われてる事が多いような気がしています。

使われた方がどういう意図で使っていらっしゃるかは、もちろんわたしには分かりません。
気がしているだけなんですが。
そういう意図は含んでないこともあるだろうということは考慮に入れておいて欲しいのですが、わたしが違和感を感じてるのはそういうところなんじゃないかなということです。

みんなで同じものを目指しましょう、から次へ行くには、「あなたとわたしは違うのよ」にフォーカスされていくのは仕方のないことだと思います。

でも、そこにこの一節は違うんじゃないかなぁと思うのです。

これ、すごく

「わたしはわたし」

だと思うのです。
結果、他と違うことに気づいた、ということなのでは、と。

最初から自分と他人は違う、のではなくて、
自と他を比べる前に、自分を知ろうってことなんだと思うのです。
自分と他人は違うから、じゃあ、自分はなんだ?ってこともあると思うのだけど。

もちろん、そういう意図で使ってらっしゃる方もいると思います。
今更何言ってるの?って思う方もいらっしゃると思います。

そこを踏まえても、わたしの中には

「自分とそれ以外は違うもの」

という当たり前というか、なんとなくそれが普通みたいな感覚があるので、
あなたとわたしは違うよね、その違いがいいよね、みたいな思考にならないのです。

どっちかというと、違うからいいよね、の方が近い感じ。
違うから知りたい、好奇心が生まれ、動のエネルギーが生まれる、そんな感じ。

なんか書いてて、よくわかんなくなって来た感もあるけど(^^;

あえて、使う時(使われている時)、何か裏にあるコンプレックスのようなものを感じてたりしてるのかな〜と思うことも。

みんな違うんだよ、って明言しとかないと、違いの良さに気づけないとか、違いに気づかなくちゃとか、思ってしまう、とか。

他人なんだから。
親だって自分の子供だって、他人なんだから。

違うんよ。価値観も。
むしろ、同じを見つけて喜んだ方が楽しいんじゃないかと思うわけです。

そのためにはやっぱり

「わたしはわたし」

なのです。

自分を知らないと他人のいいねに引きずられちゃうからね。

鳥に憧れて、飛んで、落ちないように。


最後にこの詩の全文を記載しておこうと思います。

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。

私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。

彩図社 文芸部編纂 「金子みすゞ 名詩集」より引用

こちら、Kindle Unlimited にて読むことができます。(記事記載現在)

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