書評/『東京都同情塔』九段理江(第170回芥川賞受賞作)

作中の言葉を使わせていただくなら、まさに「まだ起こっていない未来を、実際に見ているかのように幻視する」、そんな小説だった。

「言葉は無限に出てくる。けれど言葉の出所を辿れない。……でなければならない。……べきだ。それらの言葉は、牧名沙羅の外部が、牧名沙羅に言わせようとしてくる言葉なのではないか?牧名沙羅の外部の言葉と、牧名沙羅の内部の言葉の、境界はどこだ?」(p35)

 生成A Iの台頭、「加害者」の潜在的な被害者性、コンプライアンスへの過剰な配慮。143ページの中編小説にしては、飽和していると思えるほどに「テーマ」が多い。
 しかし、それらのテーマが暴れることなく、小説として瓦解せずに形を保てているのは、繊細な「言葉への意識」が根底にあるからだろう。
 その言語感覚によって、作中で「バベルの塔」とも比較される「東京都同情塔」の輪郭が美しく可視化される。

 また、小説の「図面」を描く能力も高い。
 ザハ・ハディド案の新国立競技場が却下されることなく完成した世界線の東京、という近未来の設定が、巧みな構成によって描かれている。
「シンパシータワートーキョー」のコンペに参加する(させられる)建築家・牧名沙羅と、その(友人?パートナー?)である東上拓人の視点が物語の軸を成し、その合間に幸福学者の現代批評や外国人ジャーナリストの日本人批判が差し込まれる。複眼的な視座によって、S F的設定をうまくテーマに結びつけている。

 ただし、それぞれのテーマが納得のいくまで掘り下げられているかどうかには、議論の余地がある。例えば、

「守るべき『幸福』がなければ、罪を犯すハードルは恐ろしいほど低くなる。他人の『幸福』を想像する力がなく、『幸福』を奪うことに対して罪の意識じたいが生じにくい。つまり彼らは、『犯罪者』・『加害者』である以前に、『元被害者』であるケースが圧倒的に多いのです。」(p41)

幸福学者マサキ・セトによって語られるパートであり、この主張が「犯罪者」を「ホモ・ミゼラビリス」という呼称に変えるべき、というところに繋がるわけだ。

この「加害者の潜在的な被害者性」がどうやって深められていくのか、という期待を持ちつつ読み進めたが、結局「余白」が残ったまま読み終えてしまった。

この「余白」を否定的に捉えるか、肯定的に捉えるか、分かれるだろう。

中編小説でこれだけのスケールを持った作品は稀だ。現代社会に密接しているテーマを持ちつつも、その「一歩先」にある世界観を打ち出している。そう考えれば、143ページの中で語られなかった言葉は、物語の「奥行き」として読者の想像に委ねられるとも言える。

 我儘を言えば、250〜300ページの長編版も出してほしいと思ってしまう作品だった。

 


ポップな書影が可愛らしい

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