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ラーゲリより愛を込めて/辺見じゅん



今日、髪を切った。心機一転。
新しい道へ進むことへの覚悟、とでも言ったものか。
いや、ただ単にここ最近の暑さで長い髪が鬱陶しく思ったからだ。

長年、ロングだった髪は、切ってみると新しい自分になれた気がしてそわそわした。今もこの文字を打ちながらパソコンに反射する自分のシルエットに見慣れなくて、そんな事に気づいてしまう自分に嫌悪感を抱いたりもする。

誰かに見られて可愛いねって褒められるかな。
結局、他人に映る自分に期待していた。

最近はこんなのばっかりだった事に気づいた。
口では外見で語るのは違う。内面を見てほしい。そう言っていてもやはり他人にどう思われるか、気にしていたみたいだ。

いつも思考を戻してくれるのは、本だ。
少し前、いつだろうか。そんな事も日々の目的を言い訳に忘れている。
とにかく、少し前に実家に帰った時にキッチンに繋がるカウンターにこの本は置いてあった。

父もよく本を読む。
私が本を読むようになってから、父から本を借りパク、いや、完全にパクるようになり、バイク以外に共通の話題が出来た。
稀に、よくもまぁ、この内容の本を娘に勧めるなぁと思う本もあったが、その感想を伝えるのも、まぁ、一つの楽しみになりつつあった。

そんな父が読んでいた本を今回もまたパクって読んだ。

戦争を題材にしているものは苦手だ。
人が死ぬ事がイコールで描かれているのが読む前から分かるから。
「ラーゲリより愛を込めて」は映画の告知やポスターを見る度に見たいなと思っていた。でも映画館で見るには私にはハードルが高すぎた。
暗い密室。隣には見ず知らずの他人が座る映画館で、人が死ぬのが分かりきっている映画を見る。
どうも一歩踏み出せない。

でも、映画じゃないだけまだ良いか、と思って例のごとくパクった。
自分にとってリハビリだと思って、読み始めた。
戦争経験などもちろんないのに、情景が自然と想像できた。
少しの空き時間でも時間を空けてしまうと、私はなかなか本の世界に入り込めなくなってしまうのだが、この本はすぐに本の世界に私を漬け込ませてくれた。
救いだった。

最近は本を読んでいて、直感的に心に残したい言葉に出会うと折り目をつける習慣ができた。
「生きてるだけじゃ駄目なんだ。ただ生きてるだけじゃ。それは生きていないのと同じなんだ。」
折っていた。

今の自分に言われているように思えた。
書いていて気づいた。
「生きて」を「読んで」に変えると今の自分に叱咤激励されているように感じる。
本を読んでいるだけじゃ意味がない。

人によってこの言葉は解釈がもちろん違うと思う。
私には希望の言葉であり、励ましの言葉に感じた。

髪を切りたい、と思えること。
切りたいと思ったその日にすぐ切れること。
右か左かを選べること。

こんな自由が当たり前に存在していること。
ただ、ただ、幸せだと思った。
山本幡男たちがラーゲリで生きた時間にはこんな自由は存在していない。
だからと言ってそれに同情する事すら私には許されない気もした。

自分が経験していない事は語るべきではないし、語れない。自分なりに受け止めて忘れないようにこれからも知っていく事が大切なのである。

本の内容は知っている人も多いだろうし、ぜひ読んで欲しいからここには書かない。
別に本を紹介したくてこれを書いてる訳ではない。

いつか、同じ本を読んだ人と感想を語る事ができる場所になれば良いなと思う。

山本幡男も最後は書くことを生き甲斐に命を懸命に繋いでいるように感じた。
書く事は自分にとっても心の拠り所だ。
それから逃げちゃいけない。
この本を読んでまた、戻って来れた。

忘れちゃいけない、忘れたくない、そう思っても忘れてしまう。
気づいた時には後悔しか残らない。同じことを繰り返して悔やむ。
人間らしくて、それも良いと思う。

でも結局は自分と向き合う事から逃げた事の贖罪だと思う。
久しぶりだから、文が散らかっているのが自分でも分かるけど、敢えて今日はそれすらも残したい。

こうして書いている時もまた、反射する自分のシルエットに気づいて集中力が切れる。
髪なんかどうでも良い。そう思いたくても承認欲求に似た感情が湧いてくる。
でもそんな自分がいる事にも気づけたのはこの本のおかげだ。

また、実家に帰ったら父からパクろうと思う。
次は何を読もうか。本の世界に浸れる幸せだけは忘れたくない。

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