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自己紹介

はじめまして。
瑠璃の言の葉と申します。
どうぞよろしくお願いします。
はじめに私のことを少しお話しいたします。
我が家は主人と私と子供は3人。近年、3人とも独立しました。
一時は主人の両親も介護のため同居しての7人家族でした。子育てしながらの介護、看取り、2人の子供の発達障害から来るエピソードなど話せばきりがありませんが、noteでは心が崩れそうになったとき、すっと私の姿勢を正してくれた周りの人や先人の言葉、教えを振り返りながら、書くことで感謝していけたらと思います。

生い立ち

子供の頃の話をしますね。
私は昭和生まれです。
田舎の古い家に生まれました。
両親は戦時中を生き抜いた世代です。
祖父の代まで農家でしたので、庭には犬と猫とまだ鶏を5羽飼っていました。

その頃の田舎の朝は、どの家の子供も早起きでした。
起きて布団をたたみ顔を洗うと、まず先にするのは家の手伝い。
お姉さんは玄関前の庭と玄関を掃きます。私は末っ子でしたので、鶏にエサをあげて卵を取ってくるのが仕事でした。産んだばかりの卵は温かく、小さな手で大切にお母さんの所へと運んだものでした。
冬の朝は暗いので、鶏が夜だと思って大人しく簡単に卵を取れるのですが、夏の朝は鶏が起きていて、けたたましく羽ばたかれてとても怖かった記憶があります。

ここまで読まれた方は、戦時中の子供??と驚かれるかと思いますが、ちゃんと昭和40年代のお話です!はい。

家の手伝いが終わると、手を洗って朝ご飯。
その頃はどこの家でも仏壇がありました。
実家の地域は空襲を受けることは無かったそうですが、身内に戦争で亡くなった兵隊さんがいらっしゃる事は珍しいことではありませんでした。
そして朝に仏壇のお水を換えたり、小さなご飯をお供えするのは子供の仕事でした。ついでにお線香もあげて、手を合わせてから「いただきます」。
朝起きてから随分と身体を動かしているので、朝ご飯はお代わりして食べていました。

勿論、子供なので朝の手伝いが眠くて面倒だったり、寒くて嫌だったりした事もいっぱいありました。けれども子供の手伝いは、家の大事な1日のルーティーンの一端を担っているため、当時の親たちは本気で感謝してくれましたし、サボれば厳しく叱られたものでした。

父の話

父は昭和2年生まれ。
その頃実家は農家だったので、みな朝からよく働いたそうです。
当時7人、8人兄弟、姉妹は普通にいたそうで、漏れなく父も多人数兄弟の3番目で長男でありました。
青春の頃戦争が始まり、予科練に志願。日の丸飛行隊の一翼を担うも、鹿児島にて終戦を迎えたそうです。父が命を繋いでくれたおかげで、今の私がこうしてnoteを書かせて頂いています。感謝です。

父は信心深く、人を大事にする人でした。
サラリーマンのボーナスから必ず、先祖の菩提寺に少しばかりのお金をお布施していました。「これはお姉ちゃんに」「これはお前に」「これはお寺さんに」とお小遣いの袋の横に、お寺さんの袋が用意してあるのです。
今の私の生活からは、その様な考えすら浮かびませんのに。
終戦からかなり経った私の子供時代も、父を訪ねて予科練の仲間たちが絶えず家を訪ねて来ては戦友の絆を深めていました。「人を大事に」それは父の生き方そのものでした。バラバラだった戦友の集まりを一つにまとめ、人吉での戦友会を発足させたのも父でした。「人を大事に。人の心を大事に」いつも口癖のように言っていた父。
その教えはやがて結婚して母となった私の子育てに、大きく生かされることとなりました。
この続きはまた次のnoteでお話ししていきましょう。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました。
これから少しずつですが、書かせて頂きたいと思います。

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