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映画「エゴイスト」を観て。それは、「エゴ」か、「純愛」か?


 主演は、今をときめく俳優の鈴木亮平さんである。
 Netflixの「シティーハンター」で、世界中で大絶賛されている名優さんだが、この映画はかなり前の映画で、普通に映画館で上映された。そのとき観に行きたかったのだが、あいにくと体調が悪く、映画館に行くことが出来なかった。Amazon primeでようやく観ることが出来た。
(余談だが、Amazon primeとNetflixに入っていたら、観られないものはないんじゃないかと思うほどラインナップがすごい。その気になれば一日中違う映画やドラマを観ていられる。過集中の注意障害がある私には到底無理だけど)
 鈴木亮平さんと宮沢氷魚さんがゲイのカップルを演じるのだが、実は一度目に観た時は割とわかりやすい展開で、アパレル系の職業についている鈴木さん演じるゲイの浩輔が、身体を作るために、氷魚さん演じるパーソナルトレイナーの龍太を紹介されたところから始まる。いやこの展開は読める………この先は多分こう………あーやっぱりそう来たかー的な内容だった。
 ここでまた脱線するが、この映画、とにかく男性同士のラブシーンが生々しく、強烈でどぎつい。それも、かなり時間をかけて、延々と流す。苦手なひとは苦手だと思う。かく言う私も、観ていて、ちょっと閉口したのが正直なところだ。

※この先ネタバレを含むので、未見の方はご注意を。

 子どもの頃から自分が同性愛者だと言うことを自覚していた浩輔は、早々に千葉の房総の海辺の田舎町から、東京へ出る。
 子ども時代に自分をいじめたヤツのことを「豚」と呼び、高級取りの身となった今では、ハイブランドの服に身を包んで、それを「鎧」と呼び、里帰りする時にもその服を着て自分を強く見せようとする。
 そんな時、自分の身体を鍛えたいと思った浩輔は、ゲイの仲間にパーソナルトレーナーの龍太を紹介される。色白で細くて華奢で、儚くて透明な青年の役どころは、宮沢氷魚さんにぴったり。その美しい容姿に相応しく、龍太は素直でまっすぐで、するりと浩輔の内側に滑り込んでいく。
 この時、初めての龍太とのベッドインの後、ひとりになった浩輔が、ちあきなおみさんの「夜へ急ぐ人」という、かなり不気味な歌を、派手な毛皮のガウンを身に纏って、踊り狂って熱唱するシーンがあるのだが、これがすごかった。歌はかなり音痴なのだが、熱量が凄まじい。途中の歌詞の「おいでおいで」の部分がかなり怖い。
 ゲイという宿命の自分を、今までの生きにくかった人生を、全身全霊で表現しようとする。マイクがヘアブラシというのも、また、良い。
 ふたりは、ようやく手に入れた恋に溺れて、この先もまた同じ日々が続いていくのだと思う。というか、浩輔の方は思っていた。この恋は、永遠に続くのだと。
 しかし、龍太には、たったひとりの、病弱な母を養うために、高校を中退してからずっと「売り」をやっていた過去があった。浩輔の恋に真剣になればなるほど、その苦しみが膨らんでいた龍太は、浩輔に一方的に別れを告げる。
 それを聞いた浩輔は、「自分が専属の客になる」と言い出し、「月十万、渡すから、足りない分は龍太本人が頑張って」と言う。龍太は、それを受け入れる。
 最初から、浩輔はやたらと龍太に「物」を押し付ける。龍太が高くて買えなかった、龍太の母への手土産。(この手土産攻撃は、延々と続く)どう考えても龍太だけのために買ったハイブランドのジャケット。そして、月十万円の支援。しまいには、車さえ、龍太名義で買おうとする。
 浩輔は、自分の思いを貫き通そうと、龍太とその母に「物」を与え、「金」を与え、「時間」までも惜しみなく与える。浩輔にとっては純粋な思いなのだが、「押し付ける」と言う形を取るのは間違いなく、それは、純愛より「エゴ」が先に立つ。そもそも、浩輔が高級取りでなければ成り立たない関係である。浩輔は、常に龍太よりもその母よりも「上」に立っている。龍太とその母は、戸惑い、時に狼狽えながらも、浩輔の「エゴ」を受け入れていく。
 そんな時、龍太が急死する。母親が起こしに行ったら、布団の中で冷たくなっていたという。最近、父を亡くした私は、龍太の母親がどれほど辛かったことだろうと思わずにはいられない。そして、母が龍太の死で悲しむシーンは、ほとんど出て来ない。それが、余計に母の深い悲しみを想像させる。(ちなみに、龍太の葬儀の時、母は、龍太と浩輔の関係を受け入れ、肯定している)
 そして、浩輔は絶望し、喪失感に囚われていく中で、龍太の母への援助を申し出る。今度もまた「金」である。龍太の母は、激しく拒絶はしたが、結局、浩輔の援助を受け入れる。
 その後も、浩輔は献身的に龍太の母の世話をする。龍太を忘れられないこと、早くに亡くした自分の母のこと、それら全ての喪失感をなんとかして埋めようと、浩輔は「エゴ」に取り憑かれて、龍太の母にこれでもかと言うほど、尽くすようになる。
 やがて、龍太の母が病に倒れる。浩輔は、龍太の身代わりになろうとするかのように、母の面倒を見続ける。
 そして、最後に。
 同じ病室にいた女性が「息子さん?」と声をかけた時、「お世話をしている者です」と言いかけた浩輔を制して、母は「自慢の息子名の」と笑いながら答える。
 夜になって病室を後にしようとした浩輔を、母が引き止める。
「まだ、帰らないで」
 そして、浩輔は笑顔でうなずき、そこに座って、龍太の母の手を握り返す。
 その瞬間、浩輔の「エゴ」から始まったものは、「純愛」と名のつくものへたどり着いたのである。

 私が一番びっくりしたのは、もはや怪演と言える鈴木さんや、繊細な青年役にぴったりの宮沢さんではなく、龍太の母親役の阿川佐和子さんだった。
 どこかで見たお顔だよな〜と思っていたら、まさかの、である。エッセイストとしてのお顔しか知らなかったので、これほどすごい女優さんとは思わなかった。鈴木さんと宮沢さんと並ぶと、ほとんど顔の高さが胸のあたりに来るほど小柄で細い、病弱で初老の、龍太の母に相応しい、儚げな女性を、見事に演じ切っていた。この役は、彼女以外には無理である。それすら思わせる。
 
 それにしても、「愛」とは、一体何なのだろう。
 作中、浩輔が「愛が何なのか、僕にはわからないんです」と言っていたが、その浩輔が必死に考え出したのが、相手に物を、金を、時間を差し出す「エゴ」だったのだ。
 でも、結局、それによって、龍太も、その母も救われていく。だとしたら、それは「愛」と呼べないだろうか。
 浩輔は、相手を支配したり、コントロールしたいなどとは一切考えていない。ただただ、相手の助けになりたい、役に立ちたい。そのために献身的に尽くすのみである。
「押し付ける」と言う行為が、相手にどう思われるのか、浩輔はちゃんとわかっている。だから、ところどころ、浩輔はひたすら、龍太に、その母に「ごめんなさい」を泣きながら繰り返す。自分のやっていることがわかっているのだ。相手の負担になるかもしれないのに、こんなやり方しか出来ない自分を激しく責めている。
 しかし、結局龍太は幸せな言葉を残し、余命いくばくもないその母も、最期まで浩輔を愛し、頼り、その献身的な愛の中で眠りにつくことになるだろう。
 この先、龍太もその母も亡くして、浩輔がどうなるかは心配なところだが、いずれまた、存分に「エゴ」を押し付けて、それが「愛」になるまで関係を維持出来る相手に出会えると、私は思いたい。


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