謝れば済む話じゃないなら離れれば済む話でもない
いわゆる『毒親』の問題について、
私の”個人的主観”で思うことを書いていく。
※個人的主観という保険を入れたのは、家庭の事情によって非常に多様なパターンがあるからだ。
だから私の意見を見て『でもうちはこういう事情だからそんな事言われても無理』となる事は往々にしてあると想定される。
なのでこれは私のパターンの話と思って見てくれたら幸いです。
さて、昨今『毒親』という言葉が世間に浸透してきたおかげか
YouTubeやネットの記事、本なんかで毒親に対して子供の立場としてはどうしたらいいかの対処方法を教授してくれるものを見かけることも多くなった。
その中で、私が見たものだと
『毒親からは離れなさい』
という意見が一番多数のように感覚的に思う。
私は正しい対処法ではあると思う一方で
なにか足りないような違和感を覚える。
解決してないのに解決してるようになっているように見えるのだ。
たぶん『根本解決』になってないということなんだろう。
なにか自分の中で解消しなければいけないことを残したまま、
『親から離れたから、はい、解決!
やったー\(^^)/』
とは思える子どもは少ないんじゃないか?
逆に離れるというよりも親から謝られた場合も同じように感じると思う。
親から
『あの時のことはごめんね』
と言われたら、それで私の苦しみは終わるの?
いわゆる、『謝って済む話では無い』
っていう領域になっちゃっていると思うのだ。
子どもにトラウマを与えるという事は。
だからイコール『離れれば済む話では無い』
という領域にもなっているんだと思う。
トラウマの出来事はその出来事だけにスポットを当てればいいという話ではない。
起点がトラウマの出来事であるが、そこからいろんな派生があり精神の被害や思考の悪影響の拡大に繋がっているのだ。
つまりそのトラウマがあったことにより大きく人生を狂わせられる。
これはもはや『〇〇すれば解決!』という単純な話ではない。
複雑に複雑に絡まってしまった糸を
1本1本ケースに合わせて解決方法を思案していかなければいけない。
『絶対にやらなくてもいいこと』だし、
そこまでやる必要ある?
とみんな思うだろうが、その自分の中の無数の複雑な問題に向き合うか向き合わないか
それが自分の人生として表れる気がするのだ。
そう思うのは、その無数の問題に向き合ってこなかった父親を見て
『この人の自分勝手で周りに迷惑かけまくってきたテキトーな生き方が、この人の人生を表わしているな』
と感じるからだろう。
問題と向き合うというのは
非常に面倒なことだ。
体力も精神力も非常に消耗する。
苦しい。
それでもひとつひとつ、解決しようと諦めずに努力した者だけが
本当の意味で自分を誇ることが出来る
のだと思う。
今私はその為に苦しくても頑張っている。
一歩一歩。諦めない。
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