強くなった自分が嫌い
人が覚醒した瞬間を目の当たりにしたことがある。
いわゆるサレ妻と呼ばれる女性のXアカウント。投稿が気になりしばらく追っていたことがあった。
女性はかなり若い方で、サレが発覚した当初はほとんど鬱のように死にたいと繰り返していた。投稿内容も、「私には価値がない」「どうせ私はブスだから」と自分で自分を傷つけるようなものばかり。
正直、最初は彼女の投稿を読んでイライラした。
夫にどれだけ都合よく扱われても、不倫相手の鍵垢を盗み見ては不倫デートをネトストし、悪態をつくのみ。
彼女だけが損をしているのに何も状況を変えようとしない様子に、他人ながら見ていて悔しくてヤキモキしていた。
そんな彼女が最近になって探偵を雇い、不倫の証拠を掴んで相手を追い詰める側に回った。これには私も心の中でガッツポーズ。
彼女はあんなに悲嘆に暮れていた発言が嘘みたいに、淡々と行動を起こしてフォロワーに報告をした。
そんな彼女の変化は嬉しかったし、大人になるということは多かれ少なかれ傷つき強くなっていくことと思うから、どんなトラブルがあっても堂々と振る舞い切り抜けられるようになれたことは誇っていい。
私だって学生時代とは比べ物にならないくらい、自分の心が傷つきにくくなっているのを実感している。それは、昔に比べて格段に生きやすくなったということだ。
でも。
最近どうも、強くなった自分に嫌になることがある。
それは、自分の心が、感性が鈍ってしまったんじゃないかと不安を覚えることがあるからだ。
私はアニメや漫画が昔から好きで楽しんでいたが、同じ作品を読んだ人の感想や、同じ趣味と思われる方のエッセイなども興味があって読むことがある。
中には、尊敬している作家さんやアーティストが、自分があまり好きではない作品を絶賛していることもあり、時折ショックを受ける。
そんな時、その感想を読んでみると、その方たちは自分自身の体験と作品を結びつけ、作品を一つのフィルターとして自己理解を深めていたり。はたまた心のどこかで悶々としたまま眠っていた価値観が作品への共感や感動と共に引っ張り出され、自己肯定をしていたり。
人の感性ってこんなに豊かなんだなあ、と羨ましくなる。
同時に、自分の心が乾いてしまったのは、心が強くなったことが原因なのかな、と落ち込む。
どこかで私は、強くなることは図太くなることで、そして細かいことを気にしなくなることでガサツになること。
そんなふうに思っている節がある。
強い女性はかっこいいし、強い女性を肯定している曲や作品は大好きだけれど、繊細であるほど豊かに世界を捉えられて、そしてどこか女性として魅力的なように思えてしまう。
繊細で脆くて、でもその人の見ている世界は強い人間より彩られているのかも。
羨ましいし、繊細を全力で肯定するエッセイなどを読むと、落ち込んで仕方ない。
いいなあ、できることなら私だって繊細なまま大人になりたかったよ。
なんてぼやくしか、今の私にはできない。
だってもう戻れないから。繊細な自分に戻ることは、それはそれでしんどいのだし。
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