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【エッセイ】「東京二〇二〇」の空に

 なぜ、この時期に五輪を開催するのか――。
 結局、開催する側の誰もが単純なこの問いに正面から答えることなく、オリンピックは終わった。多くの国民の大きな声をよそにオリンピックを強行したともいえる為政者は、引き続きパラリンピックを開催して東京の夏は暮れた。
 この問いへの答えは、至極簡単なことだ。
 開催する側に私的な計算はあっても、結局、この時期に五輪を開催することへの公的な回答は持ち合わせてはいなかったということに尽きる。だから、国民へのアナウンスを曖昧にして、報道規制を想起させるようなあやふやな言動に終始せざるを得なかった。
 一方、五輪開催を揶揄した側の多くも、彼らが問題にした「この時期」に含まれる新型コロナウイルス感染症とは別の、もうひとつの重大な意味は忘却していた。それは、なぜ東京での五輪を前回と同じ秋のはじめの涼やかな十月ではなく、猛暑真只中の八月に開催したことへの問い掛けである。
 七十六年前、この国の八月は哀悼の月となった。七十六年前の八月一五日を境にして、日本国民にとって八月は祈りの月である。
 その日本で、主催者たる側が、わざわざオリンピック産業のご都合主義に合わせて、八月六日と八月九日を含む日程でオリンピックを開催したことの意味とは何か。多分にそれは、主たる五輪商業国のアメリカのテレビ放送の都合からではなかったのか。
 さまざまな国民の多様な気持ちを脇に置いて、開催国たる日本の哀悼の八月を、IOCからのゴリ押しにすげもなくこの国の為政者は、祈りの月から壮大な祭典の月へとすげ替えたのである。
 かつてはその祭典にも、たしかに高揚感があった。しかし、あの晴れやかな気分も、今回の五輪からは伝わっては来なかった。
 それはけっして為政者の身勝手さや新型コロナウイルスのせいばかりではない。この五十七年の間に深く静かに進行したこの国の民の心から水分が蒸発したような無関心さこそが、選手の頑張りをよそにシラけたオリンピックにした核心であろう。この国では誰でも好き勝手にものをつぶやくが、誰も真剣にものを考えようとはしなくなった。
 なにも五十七年前の空は良かったと言いたいわけではない。あの時代はあの時代で様々な問題を抱えていた。しかし、五十七年前の空が晴れやかだったのはまちがいなく、まだ人の心がわかりやすかった時代だったともいえる。
 なにもかもが黒雲の向うに見えにくくなったこの時代に、五十七年前、まだあの下町の空は明るかった。その十九年前に廃墟と化した東京で、日本やアメリカの少年少女が等身大の心と体を存分に弾ませたのだ。
 それから五十七年、五輪と接した同じ心根を持つ今の少年少女が、そのまままっすぐに大きくなってくれたなら、結果として、この時期に五輪を開催した意味もあったといえるのか。たとえそれが、為政者側のゴリ押しであったとしても。あるいは、そもそも五輪に意味を問うこと自体が、もはや「一九六四」の幻影ということか。

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