【小説】白い掌
「たしかこの辺だったと思うんだけどなあ…」
「それで、おばあさんの家、わかるの?」
「ああ、あった! あったよ、ここだよ、ここ。――でも、この壁、塗り直してあるなあ、あの頃は木の壁だったもんなあ…」
守は急に足早になり、左手前方に見えた平屋を指し示しながら、隣の直子にそう言った。クリーム色をしたコンクリートの塗り壁が、まだそれほど古くはない家の前まで来ると、ふたりは足を止めた。
その家には、守が小学生だった当時からすでに使われていなかった便所の空気抜きの煙突があった。それが、いまだに取り外されることもなく、壁に突き出たままになっている。
守は、なにか懐かしそうにその煙突を見上げた。
先刻、ここからほど遠くない町の会館で、守の祖母の葬儀が執り行われた。葬儀に参列した二人は、「もう、ここまででいいから」と守の母に促され、帰宅の途についた。この町から守夫婦の住む街までは特急で三時間余り、時はすでに夕暮れに近かったが、守の「どうしても」というたっての願いから、二人してこの祖母の家に立ち寄ったのである。
「おじいちゃんの方の葬式はね、たしかおれが三つくらいのときに、この家でやったんだ。葬式で鳴らされる鐘の音を怖がって、葬式のあいだ中おれがずっと大声で泣き通しだったって、母親からこれまで何度も聞かされたよ。そう、三歳くらいの記憶なんてなんにも残ってないけど、この家で泣いた記憶だけはたしかに残ってるんだよな、葬式の鐘の音がそれくらい怖かったのかな…」
守は、中学になるまで毎年八月のお盆には、母親に――ときには父親も連れ添っていた記憶があるが――連れられて、母の故郷であるこの町に来ていた。母の実家であるこの家に二、三日泊まって、母親のすぐ上の兄の子、つまり従兄と、このあたりいったいを走り回って遊んだ記憶が、守にはいまでも鮮明に残っている。
歳は、その従兄が二つ上であった。
中学三年の夏休みに三年ぶりで来たとき、久しぶりに会った従兄との間柄がいつまでたってもぎこちなくて、気詰まりだった。結局、最後まで互いに打ち解けることなく帰ってから、以来、母親に促されても、もう守はこの母の田舎に同行することはしなかった。
あれから、十五年になる。
「でも、久しぶりだよなあ、十五年ぶりなんだよ。ほんとに変わってないよなあ、この辺は。ああ、ほら、それ、外にトイレがあったらしいんだよ、ここほんとに田舎の家だろ」
「ほんとだねえ。でも、うちの田舎もちょうどこんな感じで、トイレ、家の外にあったし――」
「ああ、あった、ここだよ、ほら、ここ! 来るときに話してた、おれが小さいとき、蟹を捕ったっていう場所、ここなんだよ…」
守は懐かしそうにそのあたりをひとわたり見回すと、祖母の家に路を隔てて立つ土蔵造りの家の白壁に目を留め、すぐに視線を下に落として、指で差し示しながら直子にそう言った。
白壁に沿って、ほとんど二十センチにも満たない水嵩ではあるが、川の水はさらさらと今も美しく流れている。田舎の旧道沿いに残る、か細い脇川である。
守はそれまで肘に掛けて持っていた喪服の上着を直子に渡すと、さっと駆け寄った。
そして、あの時と同じように、膝を屈めて覗いてみた。あの時と同じように、左手をその当時から川に懸かっていた石造りのほんの小さな橋の上に乗せ、あの時と同じように、頭をぐいっと下におろして橋の真下を覗いてみた。
あった。――あの時のままの窪みが、そこにはあった。
石造りの橋に置いて冷んやりとした左手の掌の心地好さが、身体の奥まで沁みて来た。キラキラと沈みゆく太陽を映した川面の輝きが、瞳に眩しかった。
―――――――
あれほど高かった真昼の太陽もいつの間にか、起こした背中の向うに沈んでいて、脇にある野球帽は被らなくとも、頭部に感じる陽射しの強さは明らかに弱まっていた。
もう、かれこれ四、五時間にもなる。守は、やっとの思いでその蟹を捕獲した。
その年、九つになった守は、夏の休みに母親の田舎に来ていた。朝から晩まで近在の山や川に、従兄と二人して、クワガタやザリガニを獲りに走り回っていた。が、この日はあいにく、従兄は朝から学校の登校日で出掛け、そのまま午后になっても帰らなかった。
いつまでたっても戻らぬ従兄がうらめしくて、時間を持て余した守は、昼飯もそこそこに、何度も何度も家の前の路地に出てみては、従兄の帰って来るであろう方角を眺めていた。
そうするうち、通りを挟んだ斜向いの大きな家の白く高い壁に沿って流れる小さな川のへりにしゃがみ込んで、川辺の石の狭間を縫うように生えている雑草を引き抜いては、川の中へ投げ込んでいた。と、水嵩のすぐ上のところ、ざらついた石の間に、ツツツと横に走る沢蟹を見つけたのである。
瞬間、――この蟹が欲しい、と思った。この蟹を獲りたい、この蟹を水槽に入れて入口の土間に置いておき、従兄が帰って来たとき、水槽の中にいる蟹を見て嫉妬に驚くであろう、その従兄の顔が見たいと思った。思うと同時に膝を屈して背中を突っ張って右手を伸ばした。が、獲り方に迷った。迷った瞬間、蟹はまたツツツと走って、小さな石の掛け橋の陰に入った。
守は咄嗟に被っていた野球帽を手に取ると、石橋の上に腹這いになって、背中をぐっと伸ばして橋の下を覗き込んだ。石の冷たさが腹に伝わりひんやりと染みた。橋の下の暗さに慣れぬ瞳に、一瞬、蟹を見失って慌わてたが、すぐさま姿を見留めると、右手に持った帽子で、上からその蟹を塞ごうとした。そこに、水である。帽子で蟹の体を覆ったとしても、そうすれば手にしたこの青い帽子が川の水の中に浸ってしまう。
守は思い直すと、その青い野球帽を傍らに置いた。見返すと、蟹の姿がない。守は焦った。従兄の顔が脳裡に浮かんだ。あたりを探した。水面の少し上のところ、石の狭間に、小さな窪みを見つけた。覗いてみた。白黄味がかった横腹と、畳まれた四、五本の足があった。――守は、じっと野球帽を脇に寄せた。
しかし、半径二センチほどの穴の奥まで、さすがに手は入らない。指先だけを入れようにも、向うは手螯みの持ち主である。石橋の上に膝を折り、前屈みになって小さな石の狭間を見つめて、守はしばらく思案にくれた。
どうしたらこの蟹を捕まえられるだろう。守はその方法だけを考えつつ、石の間の小さな窪みを睨み続けた。目を離せば逃げられる――、逆さまの姿勢で見つめ続けて、徐々に頭に血が昇ってきた。
そうだ、そうしよう――。次の瞬間、思うが早いか、守はもう駆け出していた。
祖母の家に駆け入ると、自分のカバンの中から、何枚かあるうちの野球カードから一枚を引っ摑み、一目散に蟹のところへと駆け戻った。
――蟹よ、居てくれ。
膝を屈して覘き込んだ。居た、白黄味がかった横腹が見えた。あらためて、手にした野球カードを見る。少し、躊躇った。その一枚は、中日ドラゴンズの谷沢健一選手がヒットを打った瞬間のバッティングフォームを、側面後方から捉えた写真だった。
しかし、暇はない。守は、ぐっと両方の親指と人差し指でそのカードを二つに折ると、さらにもう一回ぐっと折り畳んで、石の狭間の窪みに入る程の筒状にした。
――川べりに置き忘れてきた青い野球帽を取りに戻ったとき、あたりはもうすでに暗く、とっぷりと日は暮れていた。
蟹はすでに、青い蓋の付いた小さなプラスチック製の水槽の中にいる。少しだけ水を張って、予定したとおり祖母の家の庭先の土間の上に置いた。水槽を置いたあがり框に腰掛けて、守は折れた野球カードの皺を幾度も幾度も伸ばしながら、いつまでも捕った蟹の傍から離れなかった。
―――――――
「たぶん、学校に行って、そのまま、学校の友だちと一緒に遊んで帰って来る従兄に、自慢してやりたかったんだろうな…」
「それで、その人、どういう反応だったの?」
「ん、いや、結局その晩は、従兄とは口を利かなかった――」
「従兄って、さっきのあの人でしょ?」
十五年ぶりの再会であった。
面影は、記憶のどこかに目鼻立ちを残していたので、会えばすぐに彼と分かった。しかし、葬儀の初めに目礼を交わしただけで、あとは互いに視線も交わさずじまいだった。
葬儀は、型通りに進んだ。血縁の濃い順から焼香をしてゆくので、直子と並んで座したちょうど斜め前に、彼の背があった。その従兄の隣に座る細身で見掛けのちょっと派手な女性は、たぶん、訊きもしないのに普段から家で母親が噂をしている従兄の妻であろう。
斜め後ろから窺える、従兄の額の生え際と肩から背中にかけての肉付きに、守はやはり十五年という歳月を思わずにはいられなかった。
そのうち、何度か大きく打ち鳴らされた鐘の音とともに、祖母の葬儀は終わった。
「結局、最後までひと言もしゃべらなかったのね?」
「特に話すこともないし――、向うもなんだか話し掛けて来てほしくなさそうだったしね。おれの方には目も合わせて来なかったから…」
「でも、小さい頃は、仲が良かったんでしょ?」
守は喪服のズボンの膝頭に付いた地面の白い粉の痕を、丁寧に右手の爪先で払いながら、左手で、祖母の家の隣にひっそりと佇む小さなお堂の境内を指差した。
「ここも変わってないなあ。ここはね、さっきの従兄とよく野球をした場所なんだ。あれは、いつだったかなあ、ここの境内で花火をやったことがあってね。さっきの蟹を捕まえた年と同じ年だったかなあ、その次の年だったかもしれないけど、おれが十歳くらいのときだったなあ、たしか…」
守と直子を両脇から睨んで、そこには二匹の狛犬が控えていた。
守り役もおらぬ町内の小さな社だったが、入り口に立つ石造りの鳥居は、その境内の規模に似合わぬ、大人の二人でも見上げるほどの大きさだった。晩夏の日暮れとはいえ、日中の陽差しの名残はきつい。が、鳥居をくぐって境内の中へ一歩足を踏み入れると、直子から受け取った上着を羽織りたくなるほどに冷やりとした。土と、枝を悠揚と広げて両脇に立ち並ぶ木々の恵みだ。
木陰の心地良い冷風を味わいながら、境内の真ん中に並ぶ石畳を少しだけ往くと、石造りの中ノ門になる。そこに二匹の狛犬が、両の脇から、来たる者たちを憤怒の形相で見おろしていた。
「ここだよ、ここ。ちょうどこの石にね、よくボールを当てて、壁がわりにしてね、ゴロを捕る練習をしたんだよ――」
守が指し示したのは、右側の狛犬が鎮座する、石の台座だった。
――――――
真夏の昼下がりでも、その台座に腰掛けると、背中の真ん中あたりから冷やりとした感覚が背中いっぱいに広がって気持ちよかった。叔父さんが西瓜を持って来たのだ。守と従兄は、バットとグローブを投げ出すと、三角錐に切られた真っ赤に熟れた西瓜に齧りついた。口の中に、沁み渡るように西瓜の甘さがふくらんだ。
盆を過ぎた夏の盛りは、心持ち陽の暮れるのも早くなり、急に淋しさが増す。
その日の夜は、日暮れ頃から花火をはじめた。
初めのうちは、手元に懸かる火の粉が怖くて、守は花火からすぐに手を離してしまった。そのあたりもすぐに要領よくこなしてしまう従兄が、守には何やら恨めしかった。
花火のやり方にも慣れたころにはすっかり陽も暮れて、あたりはすでに暗かった。守が手にした花火に、従兄の下駄履きすがたの素足が照らし出された。土と砂にまみれたその足は、指先から甲にかけて真っ黒だった。足の横には、西瓜の種が三つ、四つと転がっていた。
その晩、守は、従兄と一つ布団に入って一緒に寝た。いつまでもいつまでも話していたくて、話のタネが尽きないでほしいと守は願った。
煽いでも、煽いでも、汗がシャツまで染みてくる。少しだけ、窓を開けた。
天井を見つめながら話していると、いましがた窓を開けるときに目にした外の大きな木の黒々とした影が、頭の中を離れずにいて、守は眼をつぶるのが怖くなった。
そのうち、従兄は、ぐっすりと眠ってしまった。守はひとり、浮かんでくる木の影が怖くて、なかなか寝つけなかった。向うの角の部屋でラジオが鳴っている。十ばかり歳の離れている従兄の兄が、深夜放送を聞いているのだ。大きくなると、こんな夜中にラジオというものを聴くのかと、漏れ来る音に守の神経はますます冴えた。
寝つかれぬままに仰向けに、布団の中でじっとしていた。気の遠くなるほど、夜の時間というものは永かった。そのまま天井を見つめていると、次には天井の木目が黒い木の影に見えてきて、今度は眼を開けるのが怖くなった。
隣でスースーと寝息を立ててよく眠っている従兄が、守には恨めしかった。
―――――――
「あの従兄との仲か? どうだったんだろうねえ――。夏休みのときにちょっと行くだけで、それも二、三日泊まって、少し二人の関係が慣れてきたころには、もう帰る時分だったからね…」
守は腰を折って、砂に触わってみた。十五年たったいまも、境内の風景は、守の中のあの頃の記憶と、何も変わってはいなかった。
頭の上を心地良い風が渡って往く。見上げると、気持ちよさげに、鬱蒼とした木陰をくれて欅の葉々が揺れていた。
風に送られるように杜を出ると、もう陽はだいぶ西に傾いている。
「あれ、なに、これ? ――携帯電話の店が出来てるよ!でも、ここにまちがいないもんなあ…」
「ここって、なに、あなたが川づたいに縁を歩いて行って、それで戻れなくなったって言ってた、その場所のこと?」
「そう――。そうなんだけど、こんなに川幅、狭かったかなあ。ほら、ここ、いま携帯電話の店になっているここのところ。ここに小さな町工場があってね、こうしてずうっとその工場の塀が川づたいに続いていたんだよね、ずっと向うまでね。でも、もう、あの工場もないなあ…」
いま守が、あたり一帯を見渡したその場所は、祖母の家から歩いて十分ぐらいのところにあった。歩きながら、さっきまで左手に真っ赤に見えていた陽は徐々に落ち、夕暮れに今年はじめての秋の気配を感じた。守はそれまで手に掛けていた上着を羽織ると、緩めていたネクタイももとに戻して、襟首を締めた。
「そう、ここで戻れなくなったんだ、あの夏の日の夕方に――。どうしようかって、涙が込み上げて来てね。いまはたったこれだけの川幅に見えるけど、たしか小学校二年生だったかなあ、あの時はね、こんな小さな川がもっととっても広く感じられてね…」
――ここに、来たかったのである。
直子には半ば強引に、「懐かしいから祖母の実家に立ち寄りたい」と言ったのも、実は、この場所を訪れたかったからだ。
守は、この場所に来たかったのである。
祖母が亡くなり、あしたは葬儀に出席する。昨日の晩から、守の気持ちの底には――、あの時のあの場所にもう一度行ってみたい、そういう密やかな目的が生じていた。
そして、いま、あの時のこの場所に立った。
守は、思った。――できればひとりきり、心ゆくまで、ここにいたい。
―――――――
川にザリガニは居なかった。
「あっちにも川があるから、向うに行ってみようか」、従兄が言うので来てみたが、生憎そこは地元のちょっとした工場地帯で、ザリガニが居るような場所ではなかった。
その川は、ザッザッと音を立てて、ずいぶんな水量で流れていた。
そこに川があれば、ふたりはなにかしらの遊びを見つけた。川べりから、工場の塀伝いに伝って行って、どっちが川に沿って遠くまで行って戻って来れるかを競おう、そう言い出したのは従兄の方であった。
守より二歳年長のその従兄は、蜘蛛の手足のように上手く身体を塀に這わせて、足裏の半分くらいの幅しかない川べりを伝って、川に沿って四メートル程行くと、ここまで来れたぞ、と塀の目印になる窪みを指で差し示して戻って来た。
守の番である――。
左手の小さな橋から、塀に向き合うように立って、右足からそっと縁に指を掛けてみた。なにぶん塀が直立しているので体重を前に持っていけない分、思ったよりまっすぐに立たなければならず、体が少し後ろに反るようになる。右の掌で塀の壁を手探りながら、おそるおそる左の足の指も川べりに乗せ、塀に合わさるように大の字になった。
両の掌とお腹に、コンクリートの冷たいざらつきを感じた。ゆっくりゆっくりと右方向に向って歩を進めてみる。それは、両足の親指と人差し指、たったその四本の指だけで、ぎりぎり縁の上を行くような感じだった。
自分の体の倍ほどの長さも来ただろうか、従兄が指差してみせた塀の窪みまでは、まだ守の身体ひとり分はある。
――もう行けない。
そう思ったとき、負けたくないと無理をし過ぎたことが、はっきりと判った。いま守の取っている体勢からは、首を左向きに変えて戻ること、つまり来た方向に引き返すのも大変に感じられた。
すでに、守は身動きの取れない状態にあり、小川の真ん中で、川べりの塀に立ち往生してしまったのである。
「跳べ、跳べ、こっちに跳べばいいよ!」
後からする従兄の声に、おそるおそる右肩を反らして、右眼の端で向う側の川ぶちを窺ってみる。せいの、と反動もつけられないこの体勢からでは、とても跳べるような川幅ではないと思った。
仮に、跳んだところで、川に落ちたら、腿のあたりまで水に漬るだろう。ズボンとパンツをずぶ濡れにして、家に帰らねばならない恥かしさ、そんな姿を見たときの母親の顔を思い浮かべたら――。守は、従兄がさかんに叫んでいるようには、とても跳んでみる気にはなれなかった。
それでも、守は、やっとの思いで顔を左に向け直し、蟹づたいに体を壁に密着させながら、ゆっくりゆっくり一メートルほども戻った。そして、戻ったところで、再び立ち往生をした。
来た時と戻る時では、同じようでも、何か勝手が違った。その小橋まであと身体一つ半ほどの距離を残して、今度こそもう戻れないと悟った。
泣きたくなった。泪が出そうだ。従兄が恨めしい。自分は安全な川の向う側に居て、「跳べ、跳べ、おいどうした、跳べばいいんだ」などと、まだ後の方で言っている。その調子がまた、なにか楽しげで、むしろ囃している感すらあり、いっそう憎らしさを掻き立てた。
そもそもこんな遊びを言い出したのは従兄の方であり、笑みを含んだ声を出しながら、手拍子を取っている従兄に向ってどっと怒りが込み上げて来た。目には自然に涙が滲んで来る。いっそひと思いに大声で泣き出してやろうかと思った。
と、その時である。左から、腰のあたりに突然、人の手が伸びて来た。
――白い手。
その手は、掌を上にして、守の腰のあたりでぴたりと止まった。
掌から腕へ、そして肩へとずっと視線を辿っていった。歳は二つか三つくらい年長であろうか、守に向って精一杯に右手を差し出し、身体を伸ばしている小学校高学年くらいの少女の真剣な眼差しと出会った。
少女は、左手の四つの指をしっかりと壁に掛けて、左足の親指を壁の角に絡ませて体を支えて、右膝をぐいっと前に折り曲げた格好で、身体ぜんたいを精一杯守の方に向って、差し伸ばしていた。
それからの時間は、守には、時があたたかく凍りついたように感じられた。
その時その場所で、守にとって、それは、少女と自分の二人だけの間に起った、やさしい無言の静寂にちがいなかった。
最初、守は、少女の手を取ることを躊躇った。それでも少女はじっと右手を差し延べて、黙って守の方に視線を向けている。その視線に促されて、そっと左の掌を少女の掌の上に重ねた。すると少女は、ぐっと守の手を強く握りしめて、次にはてきぱきと足の運びなどを注意した。
その掌は、やさしくて、冷たかった――。
指示を与える少女の声は、聞こえていた。その指示通りに足を運んだ。しかし、守にはその時間、少女の声は、頭上のどこか遠くから聞こえて来る遠いささやきのようで、少女の誘導に従い塀を戻って行くあいだも、守の意識はずっと少女の掌の中に在った。気恥かしくて、嬉しくて、誇らしげで、世界ぜんたいが少女の優しく冷たい掌の感覚だけになった、瞬間であった。
気が付くと、小橋はすぐそこにあった。後ろでは、従兄はもう何ごとも声を発してはいなかった。守は、右足立ちになり、そっと左足の指先を橋石に掛けた。最後は、少女の手に引かれて、ぐっと体ぜんたいを橋の上に起した。
橋まで戻ると、守は、上目づかいにチラッと少女の顔を見上げた。そのとき、少女の口もとがはじめて緩んだような気がした。
時間はやさしくほぐれて、守の耳には、川の流れる音が戻って来た。
少女の手が、ゆっくりと離れた。
言葉が出ない。チョコンと頭を下げた。
柔らいだ表情で頷いた少女の背後に、横倒しになった自転車と、投げ出された鞄が見えた。
少女はその鞄を拾い上げると、自転車を立ち上げて、ひとり去って行った。
もう―、こちらをふり返ることはなかった。
―――――――
「それで、どうしたの? ちゃんと戻れたわけ?」
「ああ…、戻ったよ、ちゃんと…」
「――泣いたの?」
「いや、―泣かなかった。ひとりで、ゆっくりと、なんとか壁づたいに這って戻ったよ…」
そのあとの帰り道、従兄と何を話したのか、話さなかったのか、どういうふうに祖母の家まで帰ったのか――。自転車でひとり立ち去る少女の背中を見送ったあとの記憶が、守にはまるでなかった。
守は、いまじっと掌を見る。
傍らでは、直子が所在なげにあたりを見回して、携帯電話の店の広告に目を留めていた。
左手の掌を固く握りしめると、あの時、思いがけずも手を差し伸べてくれた少女が、ひとり自転車で立ち去って行った方角を眺めた。そして、隣の直子に、語り掛けるともなく呟いた、……
今なら、携帯電話で母親に電話をして、それで親が飛んで来て――、それでやっぱり、おしまいなんだろうな。……
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