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【エッセイ】哲人、走る

 さまざまな問いを投げ掛けて、夏のオリンピックが終わった。
 競技場に見る競技者の背景には、かならず「TOKYO 2020」のロゴがあった。これは本来なら、一年前に開催されていたオリンピックなのだ。  二〇二一年の東京の盛夏で終焉を迎えたことに、表層と実態との乖離と歪み、その狭間でかき消されていった声なき声の怨嗟を聞くような気がした。
 しかし、ひとまずここでは、表面に現れた競技者の明白な話だけをしよう。
 あの走りを見たら、とうに五十の坂を越えた身でランニングシューズが欲しくなった。過去を顧みて、一時はのぼせ上っても、すぐに実行が潰え去るのを常としてきたわが身である。同じ坂道を転がり落ちることは容易に目に見えているのに。
 しかし、自分もああなりたいと気持ちを高ぶらせてくれるのが、一つの道を窮めた者の見せる高貴さというものか。何千何万のそうしたぶら下がり者たちから、たとえ幾人かでも本物が出てくれば、不要に商業産業化した巨大すぎるこのイベントも、本来の面目が多少は保たれたということになろうか。
 マラソンという競技は、およそ二時間強の時間をかけて走る速さを競う。しかし、事の本質は剣の立ち合いにも似て、構えたとき、すなわちスタートラインに立ったときすでに勝敗は決している。
 自分に課してきた課題と修練、日常生活におけるありさま、マラソンを離れて過ごしてきた人生とものの考え方。そうした総合成績が一点に集約されて心と体にため込まれ、あとは剣を一閃するか、二時間をかけて走ってみせるかの違いだけである。スタートする構えを見せたとき、勝敗はすでに決している。生きて来た姿そのものが問われる、シビアな競技である。
 「走ることで世界を変え、ライフスタイルや次の世代にも正しい変化をもたらした。そんな人間として記憶されたい」。競技者から、勝利の直後に語られた談話である。走っているときの風姿が、語られた言葉としてすべてそこに収斂されている。 
 そう、確かにこう見えたのだ。汗もなく、終始先頭にいて同走者たちを引っ張り、最後は孤独な自分の道を独りで駆け抜け、ときに微笑を浮かべ、だが眼は笑うでもなく周囲を威嚇するでもなく、ただ自分の胸の内を問い続けているだけの哲人のように。
 一つの競技を超えてひとりの人間として、二〇歳年下の遠くアフリカの大地から来た人格者に頭を垂れたいと思った。遠い少年の日の心持ちのごとく。    
 だから、ついシューズを買いたくなったのだ。でも、キプチョゲモデルは止めておこう、買うなら自分に合ったシューズを。それがせめてもの、同じ坂道を転がり落ちないようにするための、五十年を生きた凡人の自制心というものである。

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