義父母と一緒に出雲まで (前編)
まだ、これほど暑くなかった頃のこと。
私は妻と義父母と4人で出雲大社へ車で向かった。
2006年に脳梗塞を患った義父は、それ以降、少しずつではあったが、認知症の気配を帯びてきていた。もちろん、それは認知症が究極に達した頃から顧みてのことで、当時は義父があれほどまでに変貌するとは、つゆほども思っていなかった。
「リハビリがてら、お義父さんが行きたがっていたところに行こう!」
私は妻に提案し、妻もそれに乗って、無理をして6連休をとってくれた。
義父は旅行が好きだった。けれども、義母は神経質で外泊することを好まなかった。したがって、2人が一緒にいると、義父はずっと家にいて、暇を持て余していた。私が帰省すると、そんな鬱屈した義父を、各地へと連れ回した。
義父は新しいことを覚えることに困難をきたしていた。けれども、昔の記憶はよく覚えている。特に国民学校にいた小学校の頃の話を、よく私にしてくれた。いわゆる「戦時中」のことである。1944(昭和19)年まで横浜市西区にいた父は、空襲の危険が喧伝された秋口に、上越高田へ疎開した。
「わたしはね、手旗信号が得意で、何度も表彰されたんだよ」
私たち夫婦は、当時住んでいた諏訪を出発して、義父母の家に一泊した。そこで、今回の旅行計画を披露したのである。義母が難色を示すことは予想されたので、ギリギリまで伏せておき、1日準備の時間を設けて、妻が2人の荷物を整えた上で、車で出発と相成った。
車だと義母は家の延長にあると考えるので、了承しやすい。だから、強行軍でも、車で行こう。そのように私たちは考えて、実行した。
本当は電車で行ければよかった。北陸新幹線が、このとき、大阪あたりまで延伸していたなら。義父母を連れて、もっと観光できただろうに。現実はまだ、長野までだった。
1日目の宿泊地は、天橋立。上越高田から京都府の宮津まで。googleで検索すると5時間半。よく決断したものである。当時は、そんな機能もPCでしか起動できなかったから、怖いもの知らずで、思い切ってしまったのだろう。
8時に高田を出発した。晩夏である。湿っぽい暑さが、ジワリと肌を濡らす。
「糸魚川まで下道をいきませんか?」
国道8号線。富山へと向かう右手には清楚な日本海がきらきらと光る。これは『ドライブ・マイ・カー』でも採用された光景だ。今、この文章を書きながら、もう訪れることもないだろう日本海を思う。
谷浜、筒石、能生と、海に沿って立ち並ぶ町の風景を見ながら西へ走る。初めて、義父の姉の住む糸魚川に、義父母を連れて行った時に見た光景が蘇る。私は、関東の起伏のない街で育った。生まれた場所も海はなかった。だから、初めて見る日本海、初めて見る漁村の風景に見入った。
「親不知に寄りますか?」
「いや、もう何度も行ったさ、大丈夫!」
義父母を楽しませる旅と言いながら、私がおそらく一番興味深々だった。親不知は、のちに生まれた子どもたちと行くことになるが、この時も行ってみたいと思った。
「じゃあ、高速に乗りますね」
糸魚川JCTから、北陸道に乗る。高速に乗ってしまうと、平坦な道が続く。繰り返しトンネルがあるのも、ここの路線の特徴だ。人工の光と、自然の光。私は、義父母が後ろで楽しそうに、思い出話をしているのを聞きながら、いつしか富山を過ぎて、石川県に入っていった。
富山と石川の県境付近は、若干の山があり、曲がる道が増えてくる。それが、ちょっとした合図だ。
「石川県に入りましたよ」
すると義父は、唸り出す。
…霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更 越山併せ得たり能州の景 遮莫家郷遠征を憶ふ…
頼山陽が七尾城を攻略したのちに詠じたとされる歌。
「お義父さん、いい歌じゃないですか」
すると義父は、高田高校の校歌を歌い始めた。
上杉謙信の威風を語っている時は、気難しい義母もご満悦である。
美川ICを過ぎると、手取川の看板が。
「上杉に逢うては織田も手取川はねる謙信逃げるとぶ長(信長)だねえ」
謙信公の威光をいつまでも優越感にかえられたらたまったもんじゃありませんな、と思ったが、たいそう機嫌のいい義父を見てると、どこか嬉しかった。
「そろそろ、お昼にしましょうか。東尋坊に行く途中で、どこか見繕ってもよいですか?」
私は是非とも東尋坊に寄ってみたかった。というのも、幼い頃、金沢にある忍者寺に向かう中、順序は忘れてしまったが、東尋坊を見たという記憶があるからだ。のちにそこが自殺の名所だと知るが、それはそれとして、どこか郷愁を感じる風景だった。いつから私も死を思うようになったのだろう。
敢えて加賀ICで降りて、北潟湖の周囲を流して、東尋坊へ向かった。吉崎御坊で、義父母は何か言うかと思ったけれど、親鸞上人はともかく蓮如さんにはさほど思い入れがないようだ。
浄土真宗も、本願寺派と大谷派には、微妙に距離がある。大谷派である義父母は、西本願寺には「ホウ」くらいの関心しか示さない。歴史の不勉強だといえばそうだけれど、ばらけているからこそ、シンボルとしての親鸞が輝いて見えるのだろう。そのあたりは、私にはよくわからない世界である。
思えば、石川福井県境あたりも、私にとっては未知の土地だった。未知の土地に来ると、どうしても家々に見入ってしまう。ここにも人がいて、私と違う生活をしている。もし、ここで生まれていたなら、どのような人生だっただろう。そんな妄想を思う。
13時前後に東尋坊に着いた。子どもの頃に見た風景ほどにはダイナミックさに欠ける。それもそうだ、30年を経て、私も大きくなった。
「お義父さん、どうですか、東尋坊」
「ん、いいねえ!」
この時にはもう、義父は「いいねえ!」くらいしか評価の言葉が出なかった。それでも、この時の「いいねえ!」は、心の底からの発言に聞こえるくらいの強度があった。しばらく、海を見ていた義父は、外に出たくながって、車の中で待っている義母の元へと戻った。
私も東尋坊の描写を試みたけれど、どう描いても、この時の心境には届かない。だから描くのを諦めた。
昼食に何を食べただろうか。越前そば、だった気がする。大根おろしやダシのかかった田舎そば風。こういう食べ方も美味しい、と思って食べた。ただ、気持ちは天橋立に時間通りに着けるだろうかという不安へと変わっていた。
思えばこの時は、舞鶴若狭自動車道が小浜西ICまでしかできておらず、敦賀ICで降りた私たちは、下道を通って小浜西ICへと向かわねばならなかった。
「オバマ大統領の小浜だな」
と、義父は上機嫌だった。
義母は目をつむって、じっと寝ているふりをしていた。
「お義父さんは、この辺りには旅行に来られたことはあるんですか?」
「いや、ない!」
話の接ぎ穂が途切れた。沈黙したまま、私達は三方五湖を横目に、道を急いだ。このままだと、夕方に天橋立を歩く時間がなくなる。ただ、この湖も、時間が許せば見てみたかった。
北陸新幹線が、さらなる延伸すると、小浜まで一気にこれてしまうのだ。
お義父さん、そうなればもう、あんなお尻の痛くなるような強行軍をしなくてもよくなるのですよ。本当はもう一度、出雲大社に行きたいと言っておられましたね。一緒にいくことはできないけれど、今度は子どもたちを連れて、お義父さんと一緒にたどった道を、再度たどることにしますね。
それでも私達はなんとか午後4時半くらいに、宿に到着した。松月という宿で、今もまだ健在のようだ。細かい記憶はもうない。けれど、あの神経質な義母が穏やかに過ごせていたのだから、古いけれども清潔感があったのだろう。
私達は荷物をおいて徒歩で、ロープウェイに乗るために歩き始めた。義母もついてきた。義父は、スタスタと歩いていってしまう。どうしてこのふたり50年も一緒に夫婦生活をやってこれたのか。夫婦とは不思議なものである。
天橋立ビューランドというロープウェイ乗り場まで、途中軽い言い合いをしながら義父母は歩いた。喧嘩ばかりではあったけれど、今から思えば、それが義母の気持ちの張りをつくっていたのだし、義父にとっても唯一の外部からの刺激だった。70代は、とにもかくにも、このような軽い喧嘩が双方の認知症の進行を食い止めていたのだ、と、今なら思える。
山頂からの眺めはよかった。徐々に日は落ち始めていたけれど、まだまだ明るく、向こうまで、ジグザグした道が見通せた。義父も「いいねえ!」と何度もつぶやいていた。
一日目は、これで終わった。
強行軍ではあったものの、まだ私に体力も集中力もあった30代。同じことは、もうできない。そして、義父も2年前に亡くなった。
ちょうど、7月19日のことであった。
この旅行のことを思い出して、書いてみようと思ったのは、本当に偶然だけれども、義父がまだ、二回目の出雲大社に行ってない!と、駄々をこねたのかもしれない。
(つづく)
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