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長谷川時雨「流れた唾き」

長谷川時雨は、生粋の戦前の児である。

永井荷風は関東大震災後「震災」という韻文の中で

「今の世のわかき人々
われにな問ひそ今の世と
また来る時代の芸術を。
われは明治の児ならずや。
その文化歴史となりて葬られし時
わが青春の夢もまた消えにけり。」

と歌ったが、意外と戦後も長く生き、高度経済成長直前の1959年に亡くなった。太平洋戦争にどんなスタンスを取っていたにせよ、戦後の風景も知ることができた。

長谷川時雨は永井と同年の生まれ。1879年の生まれである。しかもエッセイ集『旧聞日本橋』にあるように、生粋の江戸っ子として生まれ育った。永井荷風と同じような気持ちになっても良いと思うわけだが、時雨のノルタルジアは乾いていて、さっぱりしている。

長谷川時雨の方は、時局下において文芸家として戦争に関与したが、外遊後体調を悪くして、戦後の風景を見ずに亡くなった。生きていたら戦後について、どういう思いを抱いたのだろうか。空襲によって焼かれた帝都に対する哀惜の辞を書きつけただろうか。案外さっぱりと、前を見るような発言をしているのかもしれない。

この『旧聞日本橋』で自分をキャラクターとして描出するときの三人称は「アンポンタン」である。なんとも、滑稽だが、一人称は「あたし」である。椎名林檎が、デビュー時にやりたかった「あたし」という一人称で語る長谷川時雨は、どこまでもカラッとしている。「時雨」というネームと全然違うじゃん、という感慨を起こさせる作家である。

「あたしは味噌汁が嫌いなので、ぽっちりとお椀の底の方へよそってもらってもつい残す」

えっ、江戸っ子なんだから味噌汁好きって言いなよ!って、勝手なイメージ持っちゃいけないですよね。江戸だろうと近代だろうといいものはいい。嫌いなものは嫌い。明治初めの味噌って、今と違って、何か気になるところがあったんですかね。

この『旧聞日本橋』は、長谷川時雨が幼いころの江戸の空気をまだ濃厚にまとっていた日本橋のことを記録したエッセイである。大変にクリスプな文章で、読んでいてハキハキと心地が良い。その記憶をたどるエッセイ集の中から、西洋的な文物と接触した「流れた唾き」の回について感想を述べよう。

感想

ひとしきり西洋風のお屋敷街やお茶の水などの書生街でみたことに驚いて見せる、長谷川は、「ふと、自分の家の午後も思い出さないではない」と話を転換させる。

「みんなして板塀がドッと音のするほど水を撒いて、樹木から金の雫がこぼれ、青苔が生々した庭石の上に、細かく土のはねた、健康そうな素足を揃えて、手拭で胸の汗を拭きながら冷たいお茶受けを待っている。女中さんは堀井戸から冷っこいのを、これも素足で、天びん棒をギチギチならして両桶に酌んでくる。大きな桶に入れた麩麺が持ちだされる時もあるし、寒天やトコロテンのこともあるし、白玉をすくって白砂糖をかけることもある。」

カメラがきちんと場面を追う、いい描写だと思う。やや年長の樋口一葉の小説が口承的な語りの小説家と眼の小説家の過渡的存在だとすれば、長谷川はすっかり眼の人になっているが、口承的なリズムだけがそこに残されて、良い塩梅に文章が流れていく。

「━そのころの人は水の味をよく知っていた。どこの井戸にもくせがある。この水は甘い、あそこのは質が細かい。━女中さんは自慢で手桶のふたをとる。今日のは何処のですかおあてになってごらんなさいと━」

水の味。

地方の日本酒を造っている酒蔵にいくと、仕込み水を飲ませてくれるところがある。私にとって、妙高市の鮎正宗酒造が、最初に水を飲ませてくれた酒蔵だった。最初は水の違いはわからなかった。しかし、徐々に、柔らかさと硬さの区別はつき、しょっぱい、苦い、甘い、という区別もついてきた。

それでも最初に飲んだところの味は忘れない。長野県飯山市と新潟県妙高市の間にある関田山脈(斑尾山で有名ですね)の雪解け水が、これほど鮮冽で、芯のある味わいながら、ミネラル感が残るわけでもなく、ふんわりと口の中で何も残さずに消えていく感覚を残すとは思わなかった。

明治の前期はそれでもまだ日本橋の井戸も、こうした形で、水を飲める程度には綺麗だったのだなあという感慨を引き起こす。二十三区唯一の酒蔵・小山酒造が廃業して、久しい。もちろん、私がついこの間まで住んでいた芝には、その間にクラフト日本酒の酒蔵、東京港醸造が出来た。

この東京港醸造は、仕込み水を聞いたら、なんと東京の水道水を使っているとのこと。小山本家は荒川の伏流水だったので、港醸造はどうなのかと思ったが、なるほどアバンギャルドである。ただ、水道管を通ってきたものなのか、それとも、浄水場での過程を経て売り物としても十分なクオリティを担えるものなのか、そこまでは聞かなかった。酒は、個人的にはおいしいと思う。

閑話休題。正直、このあとに描かれる、それぞれの祭りのときに街路そのものが縁日のようになってしまうような風景や、様々な人々がそこを行き交う情景など、私が敢えて説明しなおす必要もなく、全編引用で構わないとさえ思える文章である。

後半は、父に連れられて、吉原に行って待たされたり、芝居にいって驚かされたり、というエピソードがならぶ。これもまた、なんとも味のある観察なのだ。

父はあるとき、長谷川時雨に、「幼い私に言うような事でない言葉を洩した」と。

《「四民平等の世の中なのに、俺はいけない。なあんだ、当り前だと思いながら、情けないことに町人根性がぬけないのだな、心ではそう思いながら、つまらない奴に、自然と頭が下がりやがる。甚いもので、代々植付けられて来た卑屈だ。いめ(ママ)いましいが理屈じゃどうにもならない。お前なんぞは、そこへゆくと、生れた時から自由の子だ、どんな奴にも、頭ぁさげるな、おんなじ人間だぞ」
私は父を愛す。晩年に近く失敗したけれど、それは殆ど父の仕業ではないほど私の知る父とは矛盾した事だった。私の筆はやがて其方へも進んでゆくであろうが、そこでは弁護しないが、父の壮年時代を知り、晩年を知るものは、なにのためにかを考えさせられる。父は後にいった。長く考えていたことを、ふと迷って、そしてまた長く悔ゆると━》(p.255)

長谷川の父・渓石深造がやらかしたことは知らない。ただ、この記憶は、父のやらかしを昇華させて余りある。

長谷川時雨は、文学作品という点では傑出したものを残さなかったかもしれない。しかし、『女人芸術』という雑誌において、歴史上に残る多くの作家を世に出したことは知られている。頭の良さだけではなく、情誼に厚い人物であり、三上於菟吉などに比べて、極めて傑出した個性の持ち主である。少なくとも、こうした文章を書ける作家は、長く読み継がれてしかるべきであろう。

いずれにしても、息子たちには、今後結婚はしなくてもいいが、長谷川時雨のような文章を書ける人を見つけたならば、最大限の尊敬をもって接するべきであると述べたい。

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