見出し画像

宇野浩二「枯木のある風景」

もともとは帰宅部少年であり、何かに打ち込むことの少なかった怠惰な青年が、二浪の末に、初期投資の少ない文芸なるジャンルに入り込み、やがて何も成しえぬまま卒業していくといった、人の興味を全く惹かない物語の主人公は、なにをかくそう私である。

そのジャンルに入り込んだ時期に、文芸世界の導きとなったレーベルは講談社文芸文庫で、その表紙のデザインが好きで全部集めるとカッコいいかなと思ったものの、新刊では高くて買えなかったので、古本屋をしらみつぶしに探し歩くという、今思い出しても何とも幸福な経験をした。

この文庫レーベルの表紙デザインは菊地信義氏で、先日亡くなられたそうだ。先日と言ってももう1ヶ月前くらいになろうか。できたらこのデザインは以後も踏襲して行って欲しいものだが、それは叶わぬ夢であることも理解している。そんな菊地氏を偲びながら、本棚から拾い上げたのは「文学の鬼」宇野浩二の『思い川/枯木のある風景/蔵の中』である。

小出楢重(1887~1931)の死に題材をとった「枯木のある風景」は、正直、その背景を知らないとなんのこっちゃと思えるような画家たちのちょっとした交流譚だが、幸田露伴描く『五重塔』の主人公のようにはいかない近代日本の芸術家の姿を余すところなく見せてくれる作品でもある。

宇野浩二という人に若い人の多くは関心がないと思うが、「蔵の中」という饒舌体の小説で文壇の寵児となった大正期の代表的な作家である。芥川龍之介の友人で、宇野が昭和初期に精神を病んだ際、尽力してくれたのも芥川龍之介である。しばらく休養し、ある程度治ったところで、復帰作として上梓されたのが「枯木のある風景」だ。

実際、小出楢重には「枯木のある風景」という1930年の作品があり、Wikipediaでも何でも、検索すればすぐにデジタルデータを見ることができる。いい時代になったというべきか、味気ない時代になったというべきか、それは何とも判断しづらい。

あらすじ

紀元節の朝(2月11日)、大阪にも大雪が降り、これならばと主人公の島木は奈良へと写生旅行にプライベートで出かける。島木が描く風景を定め、描き始めると、友人の画家である古泉のことを思い出す。

島木は、美術学校の学生時代に古泉と出会った。非常に変わった性格で、大阪人でありながら、東京では大阪人との関わりを、若気の至りか避けていた。そんな話をされたときに、島木は古泉と「口をきき合う」ようになったが、元来人づきあいがあまりよくない性質なのか、深く関わることなく古泉は郷里に帰ってしまった。

島木は、絵を書きながら古泉の絵を評価していく。「モネの雪景は色彩を特徴とし、古泉のは素描を特徴としている。いいかえると、モネのは雪の美しさをあらわし、古泉のはそれの冷たさをあらわしている」というように。

島木はかつて古泉の家を訪れたときのエピソードを思い出す。古泉の家に向かおうと、わざと最寄りから一つ手前の駅に降りた島木は、歩きながら古泉の住むここいらの地勢はニースに似ているものの、「俗悪な文化住宅とバラック建ての住宅」が入り混じった風景がどうにも画題にならず、つい裸婦や静物に力を入れてしまうのはいたしかたがないと思ったりする。古泉は病気で静養しており、その理由を寓話的に聞くが、風景を書かなくなったのは、そうした病気のせいだという。

その途中で、写生をしている古泉と偶然出会い、話し込む。そして、一緒に家に戻ると、フランス人形の描かれた絵がたくさんあり、これは何かと聞くと古泉は「細君がとってきた注文品」だと「何ともいえぬ、痛ましい表情」で話した。ただ、島木をそれをうらやましくも感じた。

その後、注文品の中に、裸婦像と風景画の二つをみつけ、それぞれについて、古泉の話がなされる。作画意図や、方法論。「枯木のある風景」は、「これからは、芭蕉風に、写実と空想の混合酒を試みてみよと思うんや。題して、『枯木のある風景』というのはどうや」。

その後の古泉は、剽軽さの仮面をかぶりながら、神経衰弱が進行しているように島木には思えた。しかし、それに合わせて、画風は研ぎ澄まされ、本来目の前にある風景の中から、「雑物」は削り、空想を付け加えて、「芭蕉風」に洗練していく姿に刺激を受けた。

そんな島木の場面から離れて、古泉と一緒に「浪華洋画研究所」をしている八田と入井へと話はうつる。八田と入井は、生徒を連れて写生に行こうとしており、その往路で古泉の画風について話し合っていた。ここは、ほぼ二人の登場人物たちによる古泉圭造(=小出楢重)論だ。「青と赭(あかつち)の配色」や「異国情緒主義」や「亜刺比亜模様風(アラベスク)」な裸体画、「渋い地味な蔬菜や花があの殆んど黒一色の背景から浮き立つように見えるとこ」や、「写実と象徴の違い」など、が論点として挙げられていた。

「…ところが、その上の方の電線の一番上の線に、黒い烏のようなもんが、ちょこりんと止まっているんや、入井君、それを何やと思う。」
「枯枝に烏のとまり…」
「ちがう、そんな生まやさしいもんやない。僕も初めは、ちょっと烏かと思ったんだが、君、それが、人間やないか…(後略)

そこで、二人は電報で古泉が亡くなったことを知る。そして、弔問の用意をし、出かけ、向かう途中で、帰ってきた島木と出会う。

島木は、古泉が生活と画業の間で衰弱していった可能性に思いをはせる。生活に追われる時間の中で、絵を書いているときだけが「わたしの思う存分の勝手気儘を遠慮なく振舞い得る場所」だという随筆の一節を思い出し、とはいいながらも、からっとした性格で面倒見のよい古泉の妻のことを思い起し、追い詰めるというよりは、甘やかしてしまったのではないか、という結論にいたる。

通夜に到着した三人は、古泉の遺骸をみ、遺作を見た。島木は、未完成の裸婦写生図により敬意を払った。

感想

日本のモデル小説にはよくあることで、ハイコンテクストな状況を知った上で読まないとよくわからない小説となっている。実際、私も、最初知らずに読んでいて、正直「絵画論」小説なのかな、と思っていた。夏目漱石の『草枕』のような。

しかし、この時期の私小説作家は、身辺を題材に書くことが多いので、きっと当時の芸術家たちの友人関係とか何だとかが背景にあるのだろうと推測して、巻末の「作家案内」を読んで理解した。実際、小出楢重の作品名をちょっともじった形で、小説は書かれているが、ほぼあたりはつく。そして、近年は、そういうのはwikipediaでなんとかなっちゃうというのも、事実である(wikipediaのレファレンスがしっかりしてきているということでもある)。

特に、「枯木のある風景」の電線の上にいる人のくだりは、実際に絵を眺めてみても、確かに帽子をつけた人のようにみえるし、なるほど鬼気迫るものとして理解できる。小出楢重の随筆集は岩波文庫から刊行されており、自分も持っているはずなのだが、見つからない。実家に持って行ってしまったのだろうか。

思えば、私の子どものころ、宇野といったら野球選手の「宇野勝」で、天然さあふれるプレーで子どもたちを魅了していた。ゴムボールをフライで投げて、頭で受けて、「宇野勝!」という莫迦なまねごとで遊んだものだった。その後もMMA格闘家の宇野薫や、小説家の宇野千代、様々な宇野が私の中を通り過ぎていったが、その中でも宇野浩二は特別な存在だった。「宇野」の「宇」の字を見つめすぎて、ゲシュタルト崩壊を起こしたほどであった。

というのも、宇野浩二の友人で、大正時代の恋愛系Youtuberともいえる広津和郎の『年月のあしおと(下)』(講談社文芸文庫)に、宇野浩二が入院する前の奇矯な行動が描かれている。

「可哀そうに、お母さんはとうとう眼が見えなくなってしまった」と彼は母の再び頭を撫でながら同じ事を繰り返して云い、煙草屋の隣りの酒屋を指さして、「お母さん、見えますか、これ酒屋ですよ」
「よく見えるがな。浩二、わたし眼悪くないがな」と母はおろおろと泣き出しそうな声で云った。
「広津、女房を呼んで来てくれ」
 私は又走って彼の細君を呼んで来た。
「広津、兄貴も呼んで来てくれ。可哀そうな兄貴なんだ」
 私は彼の兄をも呼んで来た。彼の兄は子供の時分脳膜炎をやった事があるので、〇〇同様で、彼の家に厄介になっていたが、顔は年を取っているのに、いつも子供のように無邪気な笑顔をしていた。こういう場合にもやはりその笑顔は消えなかった。
 宇野は往来の真中で、母と細君と兄とを抱きかかえるようにしたかと思うと、突然こんな声を彼が持っていたかと思われるような大きな声を張り上げて、
「これだけが宇野浩二の家族だぞオ!」と叫び、続いて、「おう!おう!おう!」と何度も語尾を引っぱって唸るように叫びつづけた。
 彼に抱かれた三人の家族は、言葉も出ずに悲しそうな顔附で、咆えつづける彼の取りすがっていた。
(「宇野浩二病む」『年月のあしおと』(下)講談社文芸文庫 p.228、一部、現代においては不適切な表現にあたると懸念される部分は、伏字とした)

宇野浩二がここまでしているのに黙って見ていて、しかも、鮮明な記憶に残している広津和郎も広津和郎だが、ここで示されている宇野の姿は、まさに「枯木のある風景」の中で古泉に対する島木の解釈のようだ。

そのありように、年を取った自分は思わず心を打たれてしまうのだが、こうした家長のカリカチュアは、令和の時代にはすっかり時代遅れのイメージだろう。しかしながら、このイメージが代表する認識論的な遺物を愛玩する向きは、ますます増えているようにも思えるが如何?

この記事が参加している募集

#読書感想文

190,781件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?