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安岡章太郎「鶏と豪蔵」

「第三の新人」という年代論の枠組みは今でも十分に機能しているのかよくわからないが、「戦後派」という作家群と内包する特徴で切り分ける意味合いで命名されたこうした名称は、案外、戦後のクリスチャン・ディオールによって創案された「Aライン」「アローライン」といったモードの命名に近いものではなかったろうか。


そんな「戦後派」とは一線を画す「第三の新人」の双璧とみなされた安岡章太郎は、自分自身の体力に自信がない自信がないと言いながらも、1920年に生まれ、2013年に没した作家である。同時代の海外の作家を探すと、パウル・ツェランなんかも1920年生まれなのね。よくもわるくも青年期に戦争で翻弄された世代なのだろう。

そんな「第三の新人」の双璧のもう一人は吉行淳之介。こちらはイケメン(当時の)で、スマートで、女にもてそうで、という見てくれである一方、安岡章太郎の方は、虚弱、気弱、決して顔は良くはない、ということで、私は圧倒的に安岡章太郎にシンパシーをもってしまっていた(失礼)。結果、吉行の小説はほとんど親しまずに、この年まで来てしまった。嗚呼、見てくれの恨みというのは怖いものよ。

そんな安岡章太郎の戦争アンソロジーである『安岡章太郎戦争小説集成』が、中公文庫から出た。2018年。見つけたのは2021年だったが、これは自分の家にあった「遁走」という小説が見つからなくて買い求めたものだ。ただ、このご時世に、安岡章太郎の、しかも「戦争小説」を集めて勝算があると遅くした編集部には敬意を表したい。とはいえ、いわゆる中山義秀の「テニヤンの末日」のような戦記ものではない。安岡が体験した戦時下での「終わらない日常」が私小説風に書かれているのが特徴なのである。

あらすじ

病気によって終戦末期に軍隊を除隊となった「私」は、身寄りもない地方都市に一人放り出された。ひとまず安宿に逗留することを決め、やることもないのでブラブラしていると、着ているものが軍隊の服なので、敬礼されたり脱走兵を疑われたりして、いささか具合が悪い。しばらくして、実家からボロボロになった衣類が送られてきたが、あまりにボロボロなので、疑われたりしても今までの服の方がいいかなあ、と迷ったりして、自堕落な日々を過ごしていた。

東京へ戻り、叔父の杉本豪蔵を頼ろうと決意した理由は、小さい頃、比較的多めに小遣いをくれた思い出があったからだった。しかも、小遣いをくれるときには決まって、ちょっとした仕事を言いつけ、それを達成すると、その駄賃よりも少し多めに感じられるくらいの金銭をくれる手際に、感心していたからでもあった。

豪蔵の叔父の雰囲気はあまり変化は内容だったが、酒の勧め方から推測するに、様々な苦渋をなめた経験をしてきたようだった。しかし、親戚の自分を追い出すわけでもなく、さりとて熱烈に歓迎するわけでもなく、奇妙な距離感の中での同居生活が始まった。

豪蔵の家には女中さんと、カツという老人と、マッちゃんという奇妙な女が住んでいた。とくにマッちゃんは、朝どこかにふらふらと出かけていき、夕方には帰ってきて、一緒に飯を食っているという生活。家でゴロゴロしていても、手持無沙汰なので、カツと一緒に銭湯にいったり。長い軍隊生活のせいで、人の背中を流さないと落ち着かないので、カツの背中を流してあげたりしたものだから、ずいぶんと仲良くなり、そのお礼にカツの郷里に行って、色々なものをごちそうになったり、土産をたらふくもらったり。

しかし、昼とはうって変わって、夜は豪蔵が帰ってきて、ピリピリする。就寝後も寝言で空襲にうなされたり、ドスを効かせた声を出したりと落ち着かない。挙句の果てには、一緒に寝ろと言われて、寝言のたびに起こされてはなだめたり、という始末。

ある日、珍しくマッちゃんが家でゴロゴロしており、「私」も真似をしてゴロゴロしていたら、「もしかすると、もうすぐ戦争が終わるかもしれないって、会社の人が言っていたわ」と言われる。「私」はマッちゃんに何の感情も抱いていないので、そこから何かが起こることはなかったのだが、二人して縁側でゴロゴロと新聞なんかを読んでいたところを、叔父に見つかり、マッちゃんは何やら叱られる。

さすがに叔父も「私」のこのていたらくに業を煮やしたらしい。いろいろと小言を言われたり、自分で食うものは自分で買えという趣旨のことを言われ始める。何かむしゃくしゃしたことがあると、「私」に全部向けてくるようになったのだ。

しかし、そんな折、叔父が「焼き鳥を食いたくないか」と意味ありげに問いかけてくる。「いいですね」と「私」が言うと、叔父は姉の織田というものが疎開で鶏を売りたいと言っていたのを聞いていたという。なので、カツと「私」でそれを預かってこい、と言うのだ。乗り気になって行ってみると、弟は7日間は我慢しても、8日目に食う男だ、とにべもない返事。

あにはからんや、織田は鶏を持たせてくれた。しかも道具一式も。しかし、帰りの満員電車の中で鶏も弱ってしまい、帰り着くころには、全羽死んでしまった。それをみて、顔色を変える叔父。一週間後に、織田は見に来ると言っていたと震える。

そして、叔父はある日、その死んだ鶏を料理して、配給所の男だの、巡査だの、在郷軍人だの、地域の有力者などを集めて、酒とともにふるまいどんちゃん騒ぎをした。その翌日、叔父は「お前M(「私」の故郷)に行かないか。織田にはMに鶏と一緒に疎開したと言っておく」と言い、それを強く勧めてくる。

「私」は潮時だと思って、叔父の家を離れようとする。叔父は「私」にお金を何枚か握らせようとしてきた。結局受け取って、あてもなく出発するのだが、思い起こせば終戦二日前だった。

感想

安岡の初期作品は多かれ少なかれ、戦時下の軍隊生活や銃後生活を舞台にした私小説として読みうる。そこに関心がないと何が面白いのかわからないが、軍隊四方山話のような体験モノが好きな人は好きになれると思う。特に「鶏と豪蔵」は、ホントに戦時下のどうでもいい話で、どうでもいいからこそなんだか心温まっちゃう系なので、そのつもりで楽しんでくれればいいのではないか。

この小説は、いろんな登場人物が出てくるものの、「私」が関心をなくせばすぐに目のとどく範囲から消え去るところかもしれない。マッちゃんもカツも、ちょっとした交流をしながらも、何の物語もはらまずに、ストーリーの向こうにいなくなってしまう。そういうところが、案外、さわやかで心地よい。

今も、パンデミック下で、生活難で、海の向こうで戦争がはじまっちゃってるけど、それなりに生活は続いてしまっている。人間が生きている限り、生活はバトンのように誰かが主人公になって続いちゃっていくので、逆にその果てしなさにおそれをなして、黙示録的な最終戦争論というのは、手を変え品を変え、社会の中に簇生していくのではないだろうか。

このGWに、肺炎をこじらせて寝たきりになった90の義父を見舞った。例の病気ではなかったのだが、やはり年齢もあるのか、完全回復とはならず、言葉も少なくなりつつある。見舞いに行った時に、孫たちを見て、「友だちが来てくれたのか」と言ったという。私と孫は、親族とは言い難いので、窓の外から見舞いしていた。なので、中の声は聞き取りにくかったが、そういう話をしていたらしい。

人は年老いると、どんどん気持ちは子どもの頃へと後退していくのか。義父の記憶は、戦時中の記憶で埋め尽くされているようだ。ちょうど、1933年生まれ。正確なところは定かではないが、太平洋戦争の時は、8歳から12歳くらいに当たるのか。この時期に覚えた手旗信号を先生に褒められたことが、いつまでも自慢だったようだ。

「友だちが来てくれたのか」と聞いた時、目に見えていたのは、小学校の頃の旧友たちだったのかもしれない。認知症が深まっていった頃、「おやじが帰ってきたか」と自分の父親の幻影を見るようになっていたのだから。作家も年を取ると幼年時代のことを懐かしく思い出すことも多いと聞くが、義父も懐かしい人々に囲まれて過ごしているのかもしれない。

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