見出し画像

【小説】夢のまた夢 ~ある浮世絵師に関する記憶~ 1


長らく勤めていた大学を退職した私は、後輩のサバティカルの期間に半年だけ卒業論文の指導をすることになった。専門は隣接していたが、今の学生たちはバラエティ豊かなテーマを選択するので、私の方が勉強になった。その中に、明治の浮世絵師である楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ)という人物の描いた美人画を評価しようとする卒論があった。

楊洲周延という人物については、明治時代に近代的な主題の錦絵を描いていた絵師という認識くらいしかなく、論文を指導しているときにも、学生は美的認識を主に論じていたため、人物そのものについては後景にあった。そして、あわただしく論文の提出が終わり、皆無事に就職していくなかで、楊洲周延についても、日々に紛れていった。

ある時、親戚の法事で、糸魚川市に向かうことになった。途中、宿泊のために上越高田に立ち寄った。上越高田といえば、小川未明の出身地で、その事績を是非ともたどっておきたかった。しぶる妻を説き伏せ、上越市高田図書館の展示を見に行った。周囲は、高田城址公園となっており、春には夜桜が楽しめるという。運動場の脇にある、大きな図書館のイベントスペースで、小川未明の展示があり、それを食い入るように見ていた。

展示をあらかた見終わると、隣には上越市ゆかりの人物たち、という展示がひっそりと行われていた。上越市といえば、ほかに春日山城の上杉謙信くらいしか知識のなかった私にとって、興味深い人物が展示されていた。郵便制度創設者の前島密、上越で葡萄酒をつくろうとした川上善兵衛、相馬御風や平出修、そして堀口大學。

堀口などは、終戦の4、5年しかいなかったのに、ゆかりのある人物に挙げていいのかしらなどと思っていたところ、小和田恒氏なども挙げられていたので、なるほど偉人称揚とは、悩ましいものである。ところで、そこに楊洲周延という名前を見つけた。楊洲は筆名で、橋本直義が実際の名前だという。あの浮世絵師の楊洲に久々に再会した気がした。

楊洲周延は本名を橋本直義(はしもと・なおよし)といい、越後高田藩士・橋本直恕の嫡男として1838(天保9)年に生まれた。ただ、江戸詰めの藩士の息子だったこともあり、幼少期に高田に住んでいた訳ではないらしい。高田藩士がどうして浮世絵師となったのか。経緯はよくわからない。1849〔嘉永2〕年ごろ、歌川国芳の門に入り、その後歌川国貞の門人となっている。

武士が趣味で絵を嗜むこともあるだろう。しかし、直義の行き方は、少々度を超えている。ビッドルが来航した1846(弘化3)年には、すでに外圧の不安によって国是は大いに揺れていたのではなかろうか。そんな事件の3年後、いかに若年とはいえ、江戸詰藩士が、絵師の門をくぐるものであろうか。

この時の私が橋本直義の生き方に面白さを感じたことも事実である。セカンドキャリアが喧しく言われ、他国の脅威がまことしやかに喧伝される時代に、敢えて趣味と呼ばれる世界の門をくぐっていった男の姿に。後の人生を見ると、明治に直義はその画業を生業として、楊洲周延という人気絵師となり、生きがいのある人生を送ったように見える。しかし、それは歴史のその後を知っているものの感慨だ。この時の橋本直義は、ペリーが来航することも、幕府が開国に動いていくことも知らない。幕府が倒れるなどということも、想定していなかっただろう。

もしかすると、この時点では単に趣味の延長に過ぎなかったのかもしれない。1853(嘉永6)年、ペリーが来航して、幕府は翌年日米和親条約を結ぶ。攘夷の機運が高まり、阿部正弘は若くして亡くなり、井伊直弼は天皇の許可を得ずに、日米修好通商条約を結んだ。攘夷論は、志士らを動かし、桜田門外の変や坂下門外の変が起こる。ちなみに、坂下門外の変の際に襲撃された安藤信正は、戊辰戦争の折、政府軍と磐城平で干戈をまじえている。

橋本直義の、この時点での消息はわからない。いずれにしても、江戸詰藩士としての役割をこなしながら、幕末の動乱に対処していたのだろう。そんな直義の人生が変転するのは、大政奉還に続く、鳥羽伏見の戦い、そして、江戸城の開城であろう。直義は、政治的な変転などどこ吹く風で、画業に邁進するのだろうか。いや、そうではなかった。

江戸開城、無条件降伏に異を唱える武士たちは、手前勝手に徒党を組んで、新政府軍に抵抗していったのは周知の事実である。代表的なところは、彰義隊だろう。直義はのちに上野戦争の絵を描いてもいる。直義もまた、江戸詰の高田藩士たちが結成した「神木隊」に参加、「箱館」へと進路を定めるのである。大久保大和は、流山で降伏。伊庭八郎は小田原で交戦、立見尚文は宇都宮を陥れて、佐川官兵衛は高田に迫る。そのような中、直義も抵抗を決意したのだ。

神木隊は、江戸詰の高田藩士によって結成された部隊である。高田藩本国は新政府軍に恭順したのだが、それを潔しとしない江戸詰の藩士によって、神木隊は結集した。藩主の姓が榊原であったため、「榊」の字をばらして神木隊、と命名された。そこに、直義も参加していた。直義は彰義隊とともに、上野戦争を戦った後、榎本武揚らと五稜郭へ籠城。そこで、「箱館戦争」の死命を分けた宮古湾の海戦の際、突入部隊として志願するものの、負傷して、捕虜となったという。

私は法事のさなかも、橋本直義のことが頭を離れなかった。一度、上野戦争のときに、直義は捕らえられている。検分した桐野利秋が名前を聞いても、名乗らない。取り調べの最後に、直義は言った。

「俺は絵師の周延だ!すぐに殺せ、殺せ!」

桐野が人別改を確認すると確かにそこにはあの木版画の世界では有名な名前があった。この時、桐野と直義は共に30歳。のちに、人生がお互いに分岐して、直義は桐野らが命を散らす西南戦争の絵を描くことになるが、そのことをまだ2人は知らない。桐野は言った。

「はやく、元いたところに帰るんだ!」

(続く)

CHIKANOBU、Bruce A. Coats、2006、p.17

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?