足利市立美術館「相田みつを展」〜「渡良瀬橋」に出て来る男の真似をして、足利市駅前を歩き回った話 番外編〜

「にんげんだもの」で、なんとなく知られている故・相田みつをの人間性について、よくわかった展覧会だった。

私はもともと芸術については、基本、世界の美術史の評価に従って、かつ、いわゆる前衛的な評価軸にしたがって、物事を見ていた。だから、クリスチャン・ラッセンとか、相田みつをとか、いわゆる世間で商業的に成功したように見える作家について、どこか眉唾物として、眺めることが多かった。映画についても、音楽についても、基本同じである。

最近、そういうのは、もうやめようと思った。だから、昔だったら「通俗的」と自分が断じそうなものについて、キチンと向き合うようにしようと思うようになった。向き合って、やっぱり総合的にダメなものは、ここには書かない。齋藤孝も、「ひと」として総合的に古い著作から辿っていくと、そこには何かステレオタイプで切れない何かがある、ことを理解した(と思う)。

今回、暑さとトイレが我慢できずに、足利市立美術館に入って、なんでもいいから観ようと思って観た「相田みつを展」。なんとなくの理解で、別に後ろめたさも感じていなかった、相田みつをの生涯と全体像について、理解した時に得るカタルシスを感じる展覧会だった。

万人におすすめできるかというと、これは人生の時期的なものがあると思う。若い時には、自分のように、『正法眼蔵』をバックグラウンドにした悟りの境地を平易にアウトプットすることに対して、煮え切らなさや安易さを感じることもあるかもしれない。けれども、人には修業時代があり、「これ」を選択するに至った複雑な動機がある。このことを、齋藤孝と同様に、相田みつをについても理解できた。その上で「にんげんだもの」を見ると、また、違う感慨が生まれてくる。

相田みつをは、本名相田光男。1924年に生まれ、1991年に逝去している。今もまだご存命と思っていた私は、思ったよりも早く、67歳で亡くなっていたことに驚いた。

足利市出身。多兄弟の三男。作家で言えば、吉行淳之介や吉本隆明と生まれ年は同じ。通信兵として入隊後、訓練中に終戦、除隊となる。歌人として修業するも、曹洞宗の僧と出会い、書家としての修業を志す。戦後すぐの作品も観たが、そもそもは書家として、才能を嘱望されてはいたものの、不遇の時代を過ごしたとされる。

書道界に対する批判から、今のような作風を確立し、偈のような「うた」を書によって表現する「二刀流」として世間に打って出る。ただ、それではやっていけなかったために、ろうけつ染めの技法を使い、のれんや包装紙などのデザインを地元の足利市の老舗に向けて行い生計を立てていたという。

このろうけつ染めの作品が多数展示されていて、これは良かった。売っていたら買おうと思ったほどである。東アフリカの伝統染織カンガだと思えば、思えてくる。

#足利市立美術館

相田みつをというと、どうしても、その文章の内容に焦点が当たる。その内容は、弱さを肯定するもので、私のような年齢に差し掛かったものには慰めと映り、若者には現状肯定と見做される。

この展覧会では、自己批判的な相田みつをを=父的、自己肯定的な相田みつをを=母的、と捉えて、その両面から、作品の内実に迫っていた。母的なものだけだと思っていた自分には、厳しい一面を記すものもあるんだな、と理解できた。太宰治のように、肯定と否定の間を極端に揺れ動く、そんな不安定さに満ちた全体像があることを、理解できた。

相田みつをが売れ出したのは、出版物を介してである。1970年代、ある意味で、人の心が癒しを求め始めた時に、その語りの内容が注目された。書やろうけつ染めという手法ではなく、平易な語りが、今風の言葉で言えば「バズった」のである。以後、その不遇の時代の苦闘をなんら顧みられぬままに、商業的な成功と、作品の理解が、反比例の関係を示すようになっていく。

ただ、相田みつを自身は、その商業的な成功で得た果実を享受できるかできないかの地点で、若くして亡くなってしまう。では、親族がそれを享受できたのかというと、長らく不遇だった時代の生活に耐えたものが多少返ってきたというだけなのかもしれない。私は、家族仲の良さのようなものも、今回の展示から垣間見えて、大変に興味深かった。

お金のことはもういい。ただ、ストイックなまでに創作に打ち込んでいた姿が、再構成されて、非常に感銘を受けた。若くして金を手に入れて、銀座だなんだと豪遊している野球選手を、あんまり感心しない私であるから、相田みつをの妥協しない姿勢は好感が持てた。どうせ、適当に書いたって分りゃしないよ、ではなく、自分が納得するまで紙に向かう、墨も2つブレンドして作る、とか、読みもしないで書評をしている書評家たちに聞かせてやりたい。と、最後の一文は蛇足だけれど、もちろん、時折は羽目を外すこともあったかもしれないので、美化するのは、これぐらいにしておく。

もちろん、ヌルすぎるという部分が、ないわけではないけれど、曹洞宗に根差した平易な表現を、書やろうけつ染めという手法で世に出そうとした、詩人と書家の「二刀流」はキメラではなく、一つの革新として理解されねばならないと思う。

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