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「小説 雨と水玉(仮題)(18)」/美智子さんの近代 ”書店での仕事”

(18)書店の仕事

美智子は胸に留まるモヤが大きくなったのを感じていた。
忘年会で美智子の居るグループに啓一が挨拶にきて最後に美智子に会釈をしたとき、
一瞬ドキッとして会釈を返しながら目を逸らしてしまった。

あの梅田で会った時から二年近くが経っていたけれど、いつまた逢えるやも知れずモヤは晴れそうになかった。
「もう忘れた方がいいかもしれない。」
とも思った。

仕事には相変わらず懸命に取り組んだ。
K大学のT先生に言われたことはベテランの先輩英子さんに訊いて、数社の出版社が何か月か前から新刊の案内をあらかじめくれるということがわかった。
分かった時点で英子さんに教えてもらえるようにお願いして、今わかっているものはメモしてポケットに入れた。
ときどきそのメモを見ながら覚えるためだ。

新年になってしばらくした一月のお昼時、新刊売り場を美智子が巡回していると、T先生が本棚を見て回っているらしかった。
「T先生、いつもご来店、ありがとうございます。」
と会釈して通ったら、T先生が、
「おお、久しぶり」
と言ってくれた。
こういうコミュニケーションが美智子は好きになった。
それからもT先生を見かけると必ず声掛けするようにした。
何回か、そういう挨拶を交わすことが有ったが、美智子はよくT先生がメモを取りながら書棚を見回っている光景を見ていた。多少不思議に思っていたけれど、学者の先生は本に対する熱心さが違うのだろうと思った。

先輩の好美にも最初にT先生に試されたときに相談した関係もあって、T先生が良くメモを取りながら書棚を見て回っていること、そして美智子に挨拶を返してくれることを話すと、
「美智子さん、よく観察してるわねえ、メモ取りながら書棚を見ている人はT先生くらいでしょ。ほんま、変わった人やわ。
でも美智子さん、あんたT先生に気に入られているんやわ、T先生とお話しできるのは、女性では月一巡回でT先生の大学に決まっていくことになってる英子さんだけよ。
今度、大学へ行くとき連れて行ってもらったらええんちゃうかな。」
「そうですか、私そんなん行ってもいいんでしょうか?」
「英子さんにいっぺん言うてみたら?」
「そうですね」

ベテランの英子に話をしてみると、案外簡単に、
「今度K大学に行くとき、一緒に行きましょう。
だいたい月初めの水曜日だから二週間後かしら。
私が課長に言っておくからOKもらったらまた教えるわね。」
「はい、ありがとうございます。お願いします。」
はじめて外回りをすることになり、美智子は嬉しくなったけれど、
T先生のところだから勉強してからいかないと、と気を引き締めた。まじないみたいだと思たけれど、学生の時に入れ込んだモームの自伝小説を読み返してゼミの当時のことなどを思い返すようなこともしてみた。

K大学への外回りはわからないことが多かったけれど英子について安心して回れた。T先生も英子を信頼しているらしく無駄話なども多く和やかに楽しく過ごせた。
「新人の田中さんか、先輩をよう見習うてしっかりやりや。」
とまで言ってくれた。

仕事の面白みとまでは言わないまでも少しづつ前に進んでいることが嬉しかった。
ただ男性に対しては前に向く気持ちがなかなか湧いてこなかった。
まだ、啓一のことが胸の奥で滞っていた。

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