「家庭の運営という概念 その16」/母性愛
久しぶりでこのコラムを書かせていただきます。今回は我が家の個人的なことがらに関する記述になりますことをお断りしておきます。
妻とは平成元年の暮れにめぐり逢い平成3年3月に結婚しました。平成4年4月に長男が誕生したが、右手の一指が欠損しており機能障害がありました。次男は平成7年5月に、右足の膝下不全であり歩行ができない状態で生まれました。そのことを知ったとき私自身動揺がなかったと言ってはうそになります。長男誕生の直後産院で、そのことを伝えたとき妻は涙を見せず、しばらく無言で床を見つめていました。それは非常に長い時間だったようにも感じられたが短かったかもしれません。そのあと妻は静かに意を決したように乳児室に向かいしっかりと長男を抱きしめたことを覚えています。次男の時、私がそのことを伝えるともうためらいは何もありませんでした、長男の時と同じように無言で次男を抱きしめました。
長男は3歳の時、5時間にも及ぶ大手術を施してもらい、右手の機能障害はほとんど解消されました。手術後初めて、病院の遊戯室に連れて行ったとき、いつもはおもちゃがあればすぐにそれを目指していく長男が黙って床を見つめていました。私は長男を抱きしめ「いいかい、△△(長男の名前)、この右手は○○先生が世界一の手術をしてくれて、今は痛いかもしれないけどね、しばらくするとすっかり治るからね、絶対治るからね。そうするとね、今までよりずーっと使いやすくてなってお前のたからものになっていくんだ。だからね、いいかい、この右手をね、おまえは本当に大事にしなきゃいけないんだよ」と諭しました。長男はわかったのかわからなかったのか何かを感じていたようで、しばらくじっとして黙っていましたが、その後間もなくおもちゃを目指していったことを覚えています。
次男も1歳と2歳の時の二度にも及ぶ大手術を施してもらい、右膝下の義足に近い補装具により歩行を可能ならしめられました。4、5歳のころ、補装具を新調し一層歩きやすくなった時、滑り台の上から急峻な傾斜を元気いっぱいの笑顔で駆け下りてきて、そのあと自転車に乗って走り回った得意そうな動画映像が残っていますが観るたびに胸がいっぱいになります。身の軽い幼児のころの補装具は十全の機能を発揮し足そのものと言っても過言でないものになります。確か幼稚園か小学校に入学したころだったと思いますが、「お父さん、僕のこの足はいつほかの子の足のように治るの?」と訊かれたました。虚を突かれましたが、しかしここでひるんではいけないと思い、心を鬼にして「それはねえ、△△△(次男の名前)、△△△の足はほかの人の足のようにはならないんだ、、、、、。でもね、△△△が歩けるようなるためにこども医療センターの○○〇先生がね、一生懸命、本当に一生懸命に世界一の手術をしてくれたんだよ。だからね、この足をね、△△△は本当に大事にしていかなくちゃいけないんだよ、、、、。わかったかい。」次男は、私の膝の上で私に両の手を握られながら、しばらく無言で床を見つめていました。非常に長い時間だったようにも感じられたが短かったかもしれません、次男は妻や長男がそうであったように沈黙の決意をしていたようでした。そのあとすぐ「わかった。」と言っておもちゃで遊び始めました。
手術及びその前後さらにはその後のフォローをしてくださった神奈川県こども医療センターのお医者さん、看護師さん、補装具作製関係者の方々ほか医療関係者の方々には心から感謝申し上げるしかありません。今なお次男は成人しても補装具の新調にこども医療センターに通わせていただいていることを思うとなおさら頭が下がる思いでいっぱいになります。
子供たちは妻の愛情こそによって育てられたと言って過言でありません。一体、世の中で一番美しいものは、母の、幼子たちに向ける底の抜けるほどの慈愛の笑顔ではないか、と思います。妻が膝を折って子供たちに目線を合わせるようにして見せたその笑顔に幾度恍惚を感じさせられたことでしょうか。
息子二人は妻の愛情によってすくすくと育ち、むしろ時として発する私のエゴからくる不機嫌で時に長男を苦しませてしまったかもしれないことはあっても、二人とも並み以上に粘り強く穏当な人間に育ってくれたのは妻あったからこそのことであり本当に感謝しなければならなりません。街を歩いているとき、どこかのお母さんが子供たちに目線を合わせるように膝を折って笑顔で話しかけているのを見るとき、天に祝福の祈りを捧げている自分に気づくことがしばしばあります。本当にお母さんの幼子らに向ける笑顔ほど美しいものは他に無いと思います。
長男は学生の時、始終世界中の都市を研修や研究で経めぐり、そのまちづくりや建築物を見て回ったのち、今ハウスメーカーの建築士として日々忙しすぎるくらいに働いています。最近、口数の少ない長男が時々大人びた発言をするのにびっくりすることがあります。
次男は2年前医学部を卒業し、平塚の病院で研修医をしてコロナとも闘いいまは大学病院に勤めています。大学6年生のとき、ポリクリと言われる病院実習で小児科を回った折、指導の先生に促されて虐待で心を病んだ小学生の少年と1週間将棋を指して遊んだことを聞かせてくれました。自分の身のことを振り返りながら、小児外科を志望していることを聞かされた時は危うく涙が出そうになりました。
しかし人生はそうやすやすと渡らしてくれるものではありません。厳しいとき、困難が押し寄せたときが最もやりがいのある時であり、そこに公的な意義と志望を重ねられるよう日頃から環境づくりをし、自分の哲学を磨いていくことが求められます。そして困難というものはそう簡単に乗り越えることができるものでもありません。やり過ごしながらかもしれないが、志望の少しづつをでも実現し続けていこうとする努力とその意欲こそが人生の本質であり、志望を持ち続けてやっていくための学びや気付きが人生に不可欠なものであることを学んでいってくれたらと心から願っています。そして忘れてはいけないことは支えてくれる方々への感謝であり、報恩を心がけることです。私自身もそう思い、この先の余生を真摯に学び続けながら諦めることなく少しでも世のため日本のため尽くしていきたいと思っています。
このような家族を支えてきたものは、妻が腰をかがめて小さい息子たちに目線を合わせるようにして見せた慈愛の笑顔だったのではないかと、今私は信じております。
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