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「智子、そして昭和 (1)」/新司の生い立ち、出征とラバウル、濡れ衣の戦犯裁判から帰還へ

 

(1)
 古岳新司にとって父親を失ったあの時が大きな転機だった。昭和七年(1932)満州事変翌年の早春、そのころ漸く日本は不況を脱しつつあった。昭和四年(1929)の秋にニューヨークに発した大恐慌があったのだが、それから三年日本は高橋是清の金融財政政策も功を奏して多少情勢が明るくなったため、庶民の間にも将来を前向きに捉えて元気が取り戻されつつあったころである。父親はその頃の職人には珍しく先見の明があり、長男の新司を旧制中学に進学させていた。しかし旧制中学三年の時、父親が急に亡くなった。風邪をこじらせただけだと安易に考えたのがまずかったのかもしれない。急に肺炎となり急熱を発症してその晩に逝ってしまった。母と妹、新司自身も呆然とした。
 これからどうして暮らしていけばいいんだろう、母と妹は泣くばかり。しかし新司の決断は早かった。母と妹を養っていかなければならない、父は自分のために、普通は職人の息子には行かせてくれないような旧制中学に通わせてくれた。しかし、学校を卒業しなくても稼ぐことはできる。父を近くに見て育ったためだろう、子供のころからモノを自作して道具を作ることは趣味のように好きだった。だからもし上の学校に行くことができれば飛行機や戦車を設計する技師になりたいと思っていた。だが父を亡くした今、その道は不可能になったのだ。友情の味を知りかけていて友達のことを思えば、やり切れない寂しさはあったが、どういう状況であろうと同じように自分のできることで稼いで母と妹を養っていけばよいのだ。そうするしかないのだ、ただそれだけのことだ。
 そう思えば思い切りはついた。そして近所の戸越で財布や洒落たカバンなどの小物職をやっていた長谷屋の門をくぐった。身近に知るところとしてそこしか思いつかなかったのと、そこの主人と女将の人柄が良いのを知っていたためだ。
 単刀直入に過ぎたかもしれないが、こう切り出した。
「あの、雇っていただけないでしょうか?」
「あら、新ちゃん、どうしたの?急に。」
「ご存じのように父を亡くして私が一家を養っていかなければならなくなりました。手先は器用なんです。頑張ってすぐに役に立つようになりますから、、、是非雇っていただくわけにはいきませんでしょうか?」
「困ったわね、すぐにそう稼ぎになるようにはならないわよ、、、、、」
 女将の信子は、そう言ってみたものの、多少景気がよくなってきたのと、子供のころから見ていて性質をよく知っていたので気の毒に思ったところもあり、主人の清吉も信子もまあやらせてみるか、となった。
 世間の状況が良いこともあったのだろうが、本人の努力と力にも際立ったものがあり、来てから一年がたつ前に、なんとか一通りの仕事を覚え、完成品が作れるようになった。もちろん最初は稼ぎも十分ではなかったが、二年がたつ頃にはもういっぱしの職人の稼ぎができるようになった。それは素質があったこともあるだろうが、とにかく新司の頑張りが尋常ではなかった。若いことを良いことに朝から晩まで、休みの日さえ職場に出て道具を手入れしたり、何か次の仕事の考え事をしているというふうで、新司が自分で振り返っても、それこそ命がけで精一杯の取り組みを続けていたというふうだった。
 苦しくはあったがそれが三、四年と続くうちに十分家族を支えてやっていけるようになった。当人は食えるようになったので少し安心したのだろう。このころから自分の好みを追求してみたい、という気持ちが強くなった。それが返って玄人好みの表現となりますます受けるというふうでさらに一年、二年とたつころには清吉も大いに頼りにでき、独り立ちしても十分やって行ける職人になっていた。

 しかしそんな順風満帆も長くは続かなかった。時代は一人の男の志望の自由を肯んじないほど国家の危機が迫っていた。二・二六事件、日支事変と続き、周りの若い者が赤紙で召集されるということも珍しくなくなっていた。そして新司がつくるようなどちらかと言えば贅沢品は徐々に避けられざるを得なくなりつつもあった。日米戦争の始まる前まではまだ何とか稼ぎに困らないくらいではあったが、一方でいつ戦争へ駆り出されるかわからないという状況になっていた。
 ついにその時がきた。昭和十七年(1942)、蝉の声が響く暑い夏の日の朝、二十六歳の新司に召集令状が下り、いよいよ戦争へと駆り出されることとなった。
 新司はもともと旧制中学に行っていたこともあり、世界の情勢を理解するに十分な素養を持っていた。その頃の青年と同様、粛々と戦争に馳せ参じるつもりだった。もちろん独身の身、気になる女性の顔が浮かばないわけではなかったが、今さらそれをどうこうしようという女々しさはなく、母と妹のことだけが気になったが、清吉と信子の親切にまかせ、この時も思い切りよく旅立っていった。
 それからのことは文字通り戦争である、生易しいものではなかった。しかし、いったところが南洋のラバウルであったのは幸運だったかもしれない。戦争も中盤から終盤になっていたが米軍はあまりの堅固さにラバウルへの攻撃を諦め、陸海軍合わせて約十万の部隊が終戦まで部隊を維持し得たためだ。他の太平洋の島々の守備隊のほとんどが玉砕したことを思えば命を維持できたことは奇跡に近かったかもしれない。
 しかし新司の部隊はあのガダルカナルへ増派されるための部隊だったのだ。そこへ行く直前の昭和十八年(1943)初め、大本営の作戦変更でガダルカナルからの撤退が決まった。あの餓島(ガトウ)と言われるガダルカナルへすんでのところで向かわないことになったが、逆に飢餓に苦しむ残存部隊の救出部隊に充てられることになった。
 一緒に国内で訓練を共にした戦友たちの中には、すでに制海権が脅かされていた南太平洋を一足先にガダルカナルへ上陸していたものが多数いた。彼らは食料不足で文字通りの飢餓に苦しんでいた。そしてついに部隊全体二万八千が半数以下となってしまい、残った一万三千の精鋭が文字通りやせ細り骸のようになりながらラバウルの隣の島、ブーゲンビル島に帰ってきたのを見たときは、背筋に強烈な電気が走った。なんという姿、なんという頑張り、、、、、、。こんな姿になりおおせながらも降伏もせず、、、、。なんと表現したらよいかわからない。すざまじいばかりにやせ細った面貌、体躯、肉などどこについているのだろう、手足などとても男のものとは思われない、、、、。そしてそこには以前親しかった戦友もいたのであるが、見た瞬間にその戦友とはわからなかった。
 しかし、こちらに顔を向けゆっくりと力なくではあったが笑ったとき、はっきりとその面影がよみがえった。
「おい、矢沢か?よく帰ってきたな、よくやってきたな、大変だったと聞いたぞ。」
「、、、、人間が、、、、こんなにも、、、なってしまうとは、、、、
わからなかった、、、戦おうなんてとても思えなかった、、、、
ただ、、、、、ただ、、、、食べたい、、、、というだけで、、、、、」
 あまりにも腹に食べものをいれなかったせいであろう、見た目は骸のようにやせ細り、感情ももろくなっていたのだろう、その場で矢沢は泣き崩れた。
「よくやったよ、矢沢、こんなにもなりながら降伏せずに君は帰ってきた。もうなにも言うな、とにかく休め、このブーゲンビルにはいくらでも食料はあるぞ!安心しろ!」
「、、、あり、、、、が、、、とう、、、」
と言って矢沢はその場で倒れてしまった。
 矢沢は新司と同い年でしかも本所で飾り職の職人をやっていた。身寄りの少ないところも環境が似ており、内地の訓練の時代からよく気が合った。ラバウルへ向かう前、内地での最後の晩にしたたかに酔って、死ぬときは一緒だぞ、その時は靖国神社で職人の腕を競い合おう、と誓い合った仲だった。
 矢沢はその後、師団司令部の従兵となっていた新司の隣の部隊に配属替えとなった。そのため、ときどき声を掛け合い、数少ない非番のときに時々語り合うこともし、交流を続けた。ラバウルはそれこそ本当に忙しかった。敵は空襲をしてくるだけだったが、その合間を縫って自活のための農園づくり、厳しい訓練、そしてさらに空襲を免れるための地下要塞工事と目が回るような忙しさだった。しかし食料は豊かにあり、やりがいに満ちており、常夏の島で皆が真っ黒な顔をして元気はつらつと日々を過ごす中で、わずかにある非番の時に矢沢と語り合うのは新司にとって何よりの楽しみだった。彼はガダルカナルから戻って半年後の昭和十八年(1943)九月ごろにはすっかり元気を取り戻し、終戦の年には、食糧事情の比較的恵まれたラバウルでの日々で出征前よりむしろたくましいくらいになった。新司はその姿をうれしく眺めた。
 しかしその矢沢は昭和二十年(1945)七月米軍の空襲で不幸にも亡くなってしまった。矢沢よ、何で俺を置いてけぼりにするんだ。大声で言葉にならない叫びを空に向かって投げ、一人ジャングルの中で泣いた。
 もう少しときが、めぐりあわせが違っていれば、、、、。その後すぐ、八月に終戦となったのに、、、。

 終戦後、周りの状況がわかってくると新司は命を取り留めた責任を朧気乍ら感じるようになった。敗戦ではあったがラバウルの部隊は負けたわけではかなったし、敵が攻めてくれば当然勝つつもりでいた。そういう意味で将兵の多くは意気軒高であった。ただ終戦後伝え聞いた話によれば、祖国日本は原子爆弾まで落とされ荒廃しているという。家族のことを心配しつつ多くの戦友は故郷に戻り祖国の復興に尽くそう、と思って復員船を待っていたというのが実情だった。
 それが或る時、唐突に戦犯容疑をかけられ、収容所行きを言い渡された。
思わぬ戦犯容疑により収容所に入れられたが、それでも新司も復員すれば皆と一緒に復興に尽くそうと思っていた。
 ラバウルでは戦犯と言われるような敵国捕虜の不法取り扱いも厳に戒められていたから、容疑を懸けられるような事は起きなかったのだが、オーストラリア(豪)軍は無理に容疑をこしらえて千人単位の容疑者に取り調べを行い、筋違いの罪をかぶせていくことがかなりの数に上った。新司の容疑もまさに冤罪であり、インド人協力部隊のAを暴打し大きなけがをさせたというものだった。
 インド人部隊は、戦争当時シンガポールで結成されたチャンドラボース氏を首領とする独立インド義勇軍の部隊から派遣された日本軍協力部隊であり、敵軍である英軍インド人部隊の捕虜ではない。捕虜虐待はもちろん国際法上戦犯に問われるが、この場合はむしろ日本軍内協力部隊のことになる。だから犯罪であるとしても日本の国内法で裁かれるのが妥当な案件だった。したがって当時の国際法に照らしてもこのケースは戦犯に当たらないことは明白だったのだ。また、大けがをさせたというのも事実ではなく、ことを針小棒大に取り上げたに過ぎなかった。
 ありがちだったのは、敗戦日本軍への協力を米軍が良く思わないとの類推から、協力外国人部隊の中には自分たちは捕虜だったのであり日本人は捕虜に対して虐待を加えたと逆に勝利した側の米軍に媚びるようなことをする人間が結構な数も存在したことだった。新司の場合もまさにそういうケースに当たっていた。
 しかし豪軍は、日本人戦犯がいないなどというのはあり得ない、上がらなければ強引にでも立件してしまえ、とでもいうようにこの種の容疑でどしどし立件していった。そしてさらにひどいことに証拠の信ぴょう性に関してもいい加減なもので伝聞のみで証拠とするようなものさえたくさんあったのだ。また、裁判官は当然中立でなければならないものを戦勝国豪軍の裁判官だけで行なう、という近代法の常識に反した裁判だった。そして敗戦した日本人に対する容疑についてのみ立件し、戦勝側への容疑立件は一件も無い。それはいわば勝者が敗者を裁く一方的な復讐であると言って偽りではなかった。
 そうした理不尽な容疑で新司が収容所で服役していた雨の朝、母と妹が空襲でなくなったとの知らせを受けた。日本の長谷屋の親方清吉からの手紙が国際赤十字を通じて新司に届いたのだった。
 慟哭というのはこういうことを言うのだろう、涙と喉のつかえが同時に押し寄せ数時間止まらなかった。死んでしまいたいと思った。何のかいあって祖国日本に帰るのだ、父を失い、残された母と妹も失って、それでも生きる意味はあるのか?自分を待ってる人などない日本に帰って何ができる?ここで死のう、裁判にかけられて死のう、、、、、、。

 それを救ってくれたのは、理不尽な疑いを懸けられた自分たちと行動を共にして収容所にいた種村という軍司令官だった。
 新司のいた部屋の担当の将校の片山大尉が、新司がひどく元気を失い、裁判中にもかかわらず抗弁もせず下手をすると死刑の判決が言い渡されかねないのを見かねて、種村に相談したのがきっかけだった。新司が種村の後輩の百武という師団長の従兵をしていたということから、親しく感じてくれ、事情を聴いてくれた。そして週に二回も三回も新司のところを来訪してくれ、繰り返し繰り返し、こう語って励ましてくれた。
「古岳君、君が軍務によく尽くしてくれたことは師団長の百武君から直接聞いてよく知っている、だから、君が決して犯罪を犯すような人間でないことは私にはわかっている、
だがここの裁判は正当な裁判ではないのだ、君が主張をやめれば無実なのに罪を被ってしまうかもしれない。それはほかの理由で容疑がかかっている戦友たちにとってたまらないことだ。そして何よりそんな無法には日本人として負けるわけにはいかない。
我々はこれに打ち勝つ必要がある、
決して負けてはいけない、この裁判を戦うことは戦争を戦うことと同義だ、
お国のためなんだ、
そして祖国を思って亡くなった戦友たちのためにも、この裁判を勝ち抜いて復員を果たし、日本の復興のために頑張ってくれ、それこそが我々のいま一番重要な目的だ、いいかい、、、、。」
 種村は片山大尉と共に裁判での証拠集めや反論のしかた、そして弁護人と相談してそれらの形式を整えて陳述とするところまでも骨折ってくれた。そして危うく求刑通り死刑になるところを種村らの助けで減刑となり、結果的に三年の実刑となった。種村はそれでも承服せず無罪になるよう豪軍に掛け合ってくれたのだったが結局そこまでは難しい、ということだった。
 その後、収容所で三年を過ごし、新司が日本に船で帰国したのは昭和二十四年(1949)の末であった。その朝は晴れていたが、常夏の島から戻ったせいばかりでなく、肉親のいない日本の寒さが新司には痛いようだった。

 そのような経験をして復員した新司は、長谷屋に復職し懸命に働きだした。とにかくそれしか気持ちのやり場がなかったのだ。それはおそらく働くことは復興のためでもあろうと思い、これまでの空白を取り戻すように仕事に没頭した。
 しかし、しばらくして以前のペースを取り戻したようにも感じたころ、なにか心に隙間風のようなものが吹いているのに気付いた。それはラバウルで矢沢と過ごした日々、“戦犯”として捕らえられたものの、助けられ励まされた日々を心に思い、“祖国の復興のため尽くそう”と思う一心だった新司にとり、日本が以前の日本でなくなっているように感じられたからだった。
 新聞やラジオ、街で語る人々の口跡がどこか、戦争の後悔を通り越して非難や否定の口吻を帯びていた。その時の気持ちは時と共にいつしか強く胸にとげのような違和感となって突き刺さり続けた。亡くなった戦友たちのことを思うと、どうしてもそれを肯んずるわけにいかなかった。少なくとも自分の心を騙すことはできなかった。
 新司はこの世が或いは人間が時々嫌でたまらなくなり、旅に出るようになった。新聞は、亡くなった戦友を犬死と貶めていた。あんなにも飢餓に陥りながら敵に降伏せず骸骨のようになりながらラバウルに帰還した戦友たち、そして祖国日本、家族を思い、南太平洋に骸として残された戦友たち、そして死を誓い合った矢沢。彼らのことを思うと世間や人間が嫌になった。
 しかし、旅に出ると季節ごとに、どこかで、ある時は桜咲き一斉に散る情景の中に、ある時は夏祭りのにぎやかな風景に、また晴れた朝の抜けるような清々しい秋の空に、そして深々とした寒さの中の雪降る寂しい冬の夜に、必ずどこかで、ほんの小さいものだが美しい姿をした何ものかが心の中にゆっくりと入ってくるのを感じた。
 それは懐かしい思い出とともにあり、美しさに可憐な花を添えてくれる。そこにいるのは母であり妹であり、矢沢だった。思い出すのは二人を養うために必死になっていた昭和十年代(1935-1944)の日本、必死に軍務に尽くした戦争の日々だった。苦しい中だったが母と妹を連れていった浅草であり、よく出かけていった江戸川添いのあやめ咲く美しい公園だった。ラバウルでは晴れた朝に雫を湛えた花がことさらに美しかった。赤いなんという名の花だったのだろう、矢沢との思い出の中ではいつもきれいな花が咲いていた。
 そしてその中にいた人たちはどこまでも素直で温かかった。それが心の底までも癒してくれた。

 そんな中でも目の前に仕事のあるのは本当に仕合せのことだった。また改めて気付いたが日本では季節が巡ることでなにかをやり過ごすことができるようなっているんだと思った。春が訪れ、暑い夏が来て、空が抜けるような秋になる。そしてまた、凛として指すように寒い冬がやってくる。ことに晴れた朝はどの季節も明るいものを感じさせてくれ、日本に巡る四季は、人の心の糧であるのかもしれなかった。新司はますます仕事に打ち込んだ。
 また一方で酒の味も覚えた。時に突き刺さった違和感でたまらなくなり、泥酔することもあった。そのために飲んでいるとさえ言えるときもあった。そうやって酒の味を覚えた。そうして泥酔して帰った新司を見かけると長谷屋の信子は、母と妹を失ったことがこんなにも新司を孤独にしてしまったのではと思い、いたたまれないような気持ちがした。仕事に打ち込む性分なだけに、結婚でもすれば気持ちが明るくなってくれるかと思い、お見合いの話などもしてみたのだが、当人がてんで受け付けなかった。また無理に進めるのはかえって気の毒にも感じてしまった。
 清吉もこれには手がなかった。二人ともそういう同情もあり、お嫁さんをもらって仕合せになってほしいと心から思っていた。そのあとも二、三ならずお見合い話があったが、うまく本人と話すことができずうやむやな形で月日だけが経っていった。

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