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3.11の話

ちょっと思い立ったので、いろいろな事を忘れていると思うけど、昔の話を書いてみる。

きっかけは2023.03.11にvoicyで、震災ボラを思い出したと話していたのを聞いた事。
過去に自分がやってきた事を思い出しながら書く。それこそ備忘録だな。と思ったので。
書き出しが遅くなったのはいつもの事。

震災時 私は仕事中だった。
大きなゆっくりとした横揺れで、あっ地震。と思ってすぐに建屋から出た。
あまりにもゆっくりとした地震だったし、ほぼ1番乗りで外に出て来たので、他の人が大丈夫かな?と心配になり、当時同じ仕事をしており、かつその時に危険物を取り扱っていた人の所に行き、大丈夫ですか?と確認する為にまた建屋の中に入って行った。
今思うと迂闊だし、何で自分の身を守らなかったんだ?と思うが当時はまだ守る物が無かったからか、お人好しだったのか、そんな行動を取っていた。
その後は点呼やら何やら防災訓練の如く実施し、再び普段の仕事に戻った。震源地が三陸沖と遠かった事もあり、余震も何も心配はしてなかったし、自分自身は普段に戻っていた。
しかし、周りは違ったらしく、食堂のテレビで津波の様子を見ていた。その時は業務中にテレビ見て、余裕あるなー。と思ったが、今だったら自分もテレビを食い入るように見てたと思う。

震災後の復旧は私の住んでいた地域では大した事は無かった。私は普段の生活に戻るのはごく自然な事だと思った。
知り合いがボランティアメンバーを募ってバスで炊き出しに行ってるらしい。0泊2日だったかな?の強行ツアーだし、しかも毎週のように行っていた。
震災直後はボランティア参加者も大勢集まり、バスにいっぱい人を乗せて行っていたようだ。
正直凄いな。ボランティアでそこまでやるって

気持ち的には自分も何かしたいなー。とは思ってはいたんだと思う。イオンでやってた募金には賛同した。

2ヶ月ぐらい経ってからかな?
次回の弾丸ボラが最後だと聞きつけて、折角だから行ってみるかな?どんな世界なんだろう。
正直、興味本意。大変な人を助けたいとかでは無かった。
私が参加した時には弾丸ボラツアーの参加者はめっきり減って、バスに悠々乗って寝ながら向かってたと思う。
津波で流された家屋。土砂や瓦礫の山。
テレビで見たのと一緒だった。写真も数枚撮ったと思うが、どこかに行ってしまった。

ボラの内容は豚汁とご飯の炊き出し。
避難所に行って、暖かい食事を作って提供する。やってる時はまぁ頑張ってたんだろうね。何一つ覚えてない。
でも、作った豚汁が結構余って、周りの家に配りに行った事は何となく覚えてる。
外見は何ともない(損傷の無い)ような家でも中はぐちゃぐちゃ。復旧しながら生活してるようだった。当時現地に住み込みでボラしていた女の子(同世代)がぷらぷらしてる私を見かねて、街の人に積極的に声を掛けて、豚汁を配っていたのをよく覚えてる。
志しある人は違うと言うか、自分が凄く冷めてると言うか、現実を解ってなく、安全地帯で悠々とした生活をしていたから温度差があると言うか。
中古車屋さんが大盛況だった。車が流されて使い物にならなくなった人が多かったんだろうね。ただ、街並みが普通だったので、豚汁どうするんだろ?ぐらいにか思って無かったが暖かい物が食べれるなんてやっぱりありがたい。と言われたし、その街で暮らしていた人たちは大変な日常を送っていたんだろうと今なら思う。
彼女は今頃どうしてるかな?NPO団体とかで慈善活動とかしたたりする気がする。

んー。覚えてる事はこのぐらいだな。
津波後の街の景色。中古車屋。現地ボラの女の子。余ってどうするかと思ったら周りの家に配ったらあっという間に無くなった豚汁。地震直後の反応。
もう12年前らしい。早いね。あんまり覚えてないけど、印象に残っている事は覚えてるね。
当時の記憶が今の自分にどう影響してるのかはわからないけど、このボラは行って良かったってずっと思ってる。
こういう経験ってやっぱり自分でやらないと感じ取れないし、なにかが変わるのって自分の中の話だし。経験しないと何も産みでない訳だよね。

こうやって思い出しながら言語化できた事も良かったと思う。

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