『フレイザー報告書』こぼれ話(17)

 引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言人物一覧

○朴普煕(パク・ボーヒ)……統一教会教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)の最側近のひとり。韓国文化自由財団(KCFF)会長。
○ジョン・M・ブレイ……弁護士。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長。
○エドワード・ダーウィンスキー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員。

『朴普煕聴聞会』を読む〈一〉

 1978年3月22日、統一教会教祖・文鮮明の最側近のひとりである、朴普煕の聴聞会が開かれた。2年前のニール・サロネン、前年のダン・フェファーマンに続く、3人目の現役統一教会信者への聴聞会であり、かつ文鮮明の最側近という、重要人物に対する聴聞会がついに実現したのである。

◎朴普煕独演会

 フレイザー:私の理解では、中佐、あなたには質疑に入る前に言っておきたい声明があります。声明を妥当な区切りに限定していただければ大変助かります。追加すべき完全な声明は記録に組み込まれます。
 ブレイ:委員長、念のため申し上げておきますが、ご指摘のとおり、声明全文は記録のために提出されました。出席者には声明全文を配布いたしました。朴中佐がおこなうことは、委員会の要請に応じて、短縮版を読むことです。
 フレイザー:いいでしょう。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 ここで許してしまったのがいけなかった。なぜなら、朴普煕はここから延々と声明全文を喋ってしまうのだ。ウザい。

 朴は何を喋ったのか? 長すぎて載せる気にもならないが、箇条書きくらいはしてみよう。

●朴の経歴、特に朴が朝鮮戦争を通じ米国に対しどれだけ敬意を払っているか。
●フレイザー委員会は未評価のCIA報告書をマスコミにリークすることによって、文鮮明、統一教会およびその信者を貶めた。
●文鮮明こそアメリカの救世主であり、神学者のフレデリック・ソンタークも統一教会を認めている。
●統一教会の政治介入を咎めるが他宗教はどうなのか?
●韓国人は米国や米国人に畏敬の念を持っている。
●リトル・エンジェルスは各国で喜ばれており、エリザベス女王にも招待された。
●ROFAは「竹のカーテンの向こう側に自由世界の真実」を伝えてきた。
●IRSは71年にKCFFを調査したが証拠不十分として不起訴となった。無罪になって今更蒸し返すのは魔女狩りである。
●朝鮮半島が第二のベトナムとするわけにはいかない。

 こうして、この日の聴聞会の速記録のうち、半分の量を朴の演説に費やされた。このため、委員たちは聞きたいことも聞けず、聴聞会はまた後日に開かれることとなる(ちなみにこの日の聴聞会で費やした時間は約3時間)。

◎忘れられた男

 長々と演説を聞かされたフレイザーら委員たちは、さぞかしうんざりしただろうが、冷静に朴に質問を浴びせてゆく。
 まずは、疑惑の中心である韓国文化自由財団(KCFF)設立の経緯である。

 フレイザー:どのようにしてKCFFと関わるようになったのですか?
 朴:KCFFはまさに私のアイデアです。私がこのアイデアを思いついたのは、韓国大使館に外交官として勤務していたときでした。韓国にとって最良の同盟国である米国において、私は依然として我が国、韓国に対する真の理解が非常に不足していると感じています。この数年間、私は文化と自由の精神を促進することで両国の人々を結びつけるために、文化を志向した何らかの運動が必要であると強く感じました。
 まず、私はウィリアム・カーティン大佐にこのアイデアを持ちかけ、彼をそのアイデアに引き入れました。それから私たちふたりは元韓国大使の梁裕燦(ヤン・ユチャン)氏のところへ行きました。そして彼は私たちのコンセプトに心から同意し、私たちは彼を引き入れました。そこで私たちはアーレイ・バーク氏にアプローチしました。もちろん、彼がKCFFの創設会長であることはご存知でしょう。それから私たちはドワイト・アイゼンハワー将軍に近づきました。アイゼンハワー将軍は……「これは私の、人民と人民の概念にぴったりであり、私はそれを支持します」と述べました。彼は声明を発表し ました。それがKCFFの始まりです、委員長。
 フレイザー:それはいつですか?
 朴:1965年です。編成は1964年に始まりましたが、実際の作業のほとんどは1965年に完了しました。当財団は1965年9月に非営利団体としてIRSの認定を取得しました。
 フレイザー:KCFFはあなたが韓国政府の職を離れた後に設立されたのですか?
 朴:はい、このコンセプトは以前から存在していました。しかし、私はまだ韓国軍に勤務していました。したがって、私は勤務を続けるべきか、それとも退職してKCFFに参加するべきか、重要な決断を下さなければなりません。私はKCFFへの参加を決意しました。私は陸軍を退役し、KCFFに参加しました。
 フレイザー:あなたがまだ韓国大使館に勤務していた間、KCFFのために何らかの仕事をしましたか?
 朴:はい、委員長。私の公務としてではなく、プロジェクトに参加する私の個人的な意志としてです。しかし、私は正式にKCFFの代表を務めたり、KCFFの結成に参加したりしたことはありません。
 フレイザー:このアイデアはあなたの頭の中にあり、大使館にいる間に取り組み始めましたが、これは自主的にやったということでしょうか?
 朴:私はそのアイデアをカーティン大佐に伝えました。先駆的な課題や仕事のほとんどはウィリアム・カーティンによって行われました。
 フレイザー:カーティン大佐とは誰ですか?
 朴:当時、彼は韓国で勤務した退役米陸軍将校でした。私は彼が在韓米軍事顧問団に在任中に会ったと思いますが、友人になりました。そののち彼は退職し、ワシントンD.C.に住んでいました。私は外交任務中、頻繁に彼と会っていました。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 こうして、KCFFは朴が駐在武官でいる間、バーク(元海軍提督)会長、梁(元駐米韓国大使)執行副会長、カーティン(元陸軍大佐)副会長のもとで設立される。ちなみに、名前が出たアイゼンハワー、およびトルーマンの大統領経験者ふたりが名誉会長である。

 設立当初、KCFFのプロジェクトのひとつは、フリーダム・センターの支援だったようだ。
 フリーダム・センターとは何か? これはKCFFの資料に説明していただこう。

 フリーダム・センターは、アジア人民反共連盟の後援のもと、1962年に韓国のソウルに建てられた。韓国、中華民国、フィリピン、ベトナム、タイ王国の憲章加盟五カ国が連盟を構成している。
 フリーダム・センターによって現在実施されている連盟の目的は以下のとおり:
  a. 共産主義の誤りと矛盾を科学的に証明する理論体系の確立。
  b. あらゆる分野における共産主義者の浸透と侵略に対抗し、阻止するための反共産主義の戦略と戦術に関する研究の実施。
  c. 国際規模での講義、セミナー、ワークショップを通じた反共産主義の指導者や幹部、知識人、作家、ジャーナリスト、労働組合員の研修。
  d . 共産主義の誤ったプロパガンダを暴き、挫折させ、自由の福音を広めるための文化的および情報活動の実施。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 アジア人民反共連盟(Asian Peoples' Anti-Communist League、APACL)はのちの世界反共連盟(World Anti-Communist League、WACL)であり、さらに世界自由民主連盟(World League for Freedom and Democracy、WLFD)と改称されるが、統一教会も関わっている反共国際組織である。反共運動のための拠点としてソウル市南山に建てられたのがフリーダム・センターだった。

 現時点では、フリーダム・センターには公式の代表がなく、米国政府と直接交渉する手段もなければ、米国国民にその活動や道徳的、物質的な支援の必要性を知らせる手段もない。後者に関連して、韓国政府は796,231ドルを寄付し、韓国では公募を通じて830,770ドルが集められている。この取り組みに適切な財政基盤を提供するには、さらに77万ドルが必要である。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 かくて、フリーダム・センターへの募金活動がKCFFに課せられたプロジェクトとなる。
 これは朴の感知するものではなかったという。

 フレイザー:……KCFFが、フリーダム・センターを公式プロジェクトとして採用したのは何年だったか我々にお話し出来ない。 ご存知ないと?
 朴:KCFFは1964年3月に正式に誕生しました。
 フレイザー:まだ大使館におられたあいだですね?
 朴:はい、委員長。そして9月までに最初の基盤づくりがすべて整いました。当時、彼らはフリーダム・センターをKCFFプロジェクトとして採用しました。
 フレイザー:カーティン氏から梁[元]大使に宛てた書簡によると、金[貞烈(キム・ジョンニョル)駐米韓国]大使は、財団がフリーダム・センターへの支援に特に重点を置くことが自身の希望であると述べてます。つまり、少なくとも手紙のその部分は正しい記述であるように見えますが、それでよろしいでしょうか?
 朴:どうやら当時、韓国政府は米国で何らかの支援、つまり完全な自由プロジェクトを望んでいたようです。おそらく大使がカーティン大佐を通じて韓国文化自由財団のフリーダム・センターへの支援を希望した可能性は非常に高いです。あり得ることです。確かに、金大使は一度も私に尋ねませんでしたし、そのような問題について私へ相談したこともまったくありませんでした。
 フレイザー:あなたはどうやら、何が起こっているのかよく分かっていなかったようです。
 朴:はい、委員長。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 ウィリアム・カーティンは1965年8月27日、心臓発作でワシントンD.C.のウォルター・リード陸軍医療センターで亡くなる(満52歳)。

 フレイザー:大使が「はい、韓国文化自由財団に、この韓国政府のフリーダム・センターを支援してもらいたい」と言ったという証言が真実である可能性は十分にありますか?
 朴:はい。私がはっきりと知っていることがひとつあります。カーティン大佐が亡くなり、私がKCFFの運営業務を引き継いだとき、私たちはフリーダム・センターをプロジェクトから完全に外しました。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 朴の証言通りならば、カーティンが朴の思惑とは異なる方向へKCFFを動かそうとしていたので、カーティンが病死したのを幸い、朴が軌道修正したと思える。

 だが、それは本当なのだろうか?

 KCFFがアメリカ人に信用してもらうには、著名なアメリカ人の後ろ盾があると手っ取り早い。それが大統領であったり元海軍提督ならばなおさらだ。その仲介役として選ばれたのが、退役将校のカーティンであり、民間人のローランドであった。

 さらに、カーティンは朴に欺かれていた可能性がある。

 実は、統一教会がアメリカにやって来た1961年から、FBIは密かに内偵を進めていた。ただし、統一教会ではなく、APACLのほうであった。
 なぜか。フリーダム・センターを韓国に設立するためには莫大な資金が必要であったが、韓国政府はそれを海外からの寄付金、それも主にアメリカからの寄付金で賄おうとしていた。これは外貨持ち出しの法律に抵触する可能性があったのだ。裏を返せば、反共の中心地という名目に、外貨を不正に獲得しようという目論見があったのだ。
 FBIは1965年3月3日、カーティンに接触している。カーティンは、FBIの聴取に「自発的に、いかなる脅迫や約束もなしに、次の情報を提供した。
 なお引用文中、KCFFIは Korean Cultural and Freedom Foundation , Incorporated の略でありKCFFと同義である。

 カーティンは、このパンフレットは改訂中であり、「プロジェクトNo.1:フリーダム・センター」の10ページは完全に削除されるだろうと述べた。カーティン氏は、このパンフレットは個人的に書いたものであり、「フリーダム・センター」に関する部分は完全に削除され、いかなる状況においてもKCFFIからの支援や支援は受けられないと説明した。カーティン氏は、パンフレットにそれが登場したのは、このパンフレットを準備していた1963年5月に遡ると説明した。そして、米ドルの海外輸出を管理する米国財務省の規制についてはまったく無知だった。カーティンは、KCFFIは米国財務省の証明書を取得しており、「フリーダム・センター」への米ドルの輸出は、即時取り消しを意味すると述べた。プロジェクト2、3、4、および5は、予定されている改訂版にも残される予定である。改訂されたパンフレットに追加されるのは、「実験装置の収集と配布」として知られるプロジェクト6である。計画では、古い機器やわずかに損傷した機器を募集し、梱包して箱に詰めて、韓国の学校、病院、宗教施設に発送する予定である。詳細はまだ決まっていない。しかし、そのような物資の輸送は、割り当てられていない貨物スペースの使用許可を与える米国海軍艦艇の使用を通じて達成できることが期待されており、もちろん韓国行きの船舶にも使用できる。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 KCFFの仕事からフリーダム・センターが削られたのは、朴の目的と合致しなかったからではなく、財務省に目をつけられた可能性が高い。同時に、韓国政府の下請け仕事とも手が切れるので、朴にとっては渡りに船であったろう。

 ちなみに、残りのプロジェクトNo.2は『講演者局』(著名人による講演のマネージメント)、No.3が『リトル・エンジェルス』、No.4が『人的交流』、No.5が『人材育成』であった。

 カーティンは自分の財産をKCFFに注ぎ込んでいた。

 カーティンは、資金不足のため KCFFI の進捗が遅れていると説明した。カーティンは、KCFFIの設立以来の経費はすべて彼のものであると述べた。これは約4,000ドルに相当し、募金キャンペーンが成功したら回収したいと考えている。カーティン氏は、自身が韓国に興味を持ったのは、朝鮮戦争中に軍事訪問したことがきっかけで、この人々に夢中になったと説明した。彼はまた、自分の退役に目的を与えたいと考えており、KCFFIの設立がこの退役の目的を達成するだろうと感じていた。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 また、FBI聴取の時点でカーティンの体調は相当悪化していた。

 カーティンは最近肺炎で入院し、徐々に視力を失いつつあるため健康状態が良くないと述べた。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 前述の通り、カーティンはKCFFが税制上有利な非営利団体の認可受けるのを見ることなく亡くなる。
 結局のところ、カーティンは統一教会のフロント組織が米国にて地歩を築くための犠牲にされたようにみえる。

 最後に、カーティンが支出した約4,000ドルはどうなったのか見てみよう。
亡くなった約半月後、KCFF理事会で取り扱われた。

 オフィスの賃料など、カーティン大佐が負担した経費は、秘書と財務がカーティン大佐のリストを確認した後、決定され、そのコピーが会計および執行委員会の他のメンバーに渡されるものとする。費用を負担する場合は、コピーがカーティン夫人に渡される。カーティン大佐が財団のために負担した費用をカーティン大佐の財産に償還する契約や法的約束がないことは認識されているが、執行委員会のメンバー全員は、私たちの道徳的義務には、カーティン大佐の財産にこれらの費用を償還することが必要であると強く感じた。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 更に半年後、

 故カーティン大佐の財産に対する財団の義務について議論があり、正式に提出され全会一致で可決された動議により、それは「カーティン大佐に対するキャッシングに対するこの義務は、資金が利用可能になったときに支払われることが解決された。」

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 果たしてカーティン夫人に支払われたのだろうか。

◎尻尾を出さぬ朴普煕

 ここからは細々としたことが聞かれていく。KCFFは米国の団体でありながら、朴鐘圭(パク・チョンギュ)が韓国大統領警護室長だった頃の補佐役で、KCIAエージェントでもある金雲龍(キム・ウンヨン、別名ミッキー・キム)へ便宜を図っていること。韓国軍を退役してからKCFFに役員として入るまでの収入はどうしていたのか。1970年の青瓦台での韓国政府秘密会議で、『コリアゲート』の中心人物であり、対米ロビー活動に従事する朴東宣(パク・ドンソン)の管理下に置く活動家として、朴普煕の名前が挙げられていることについて、あるいは朴東宣との関係について。

 これらのなかで注目するのは、KCFFの資金調達に関するふたつの疑惑である。まず、先のカーティンに対するFBIの聞き取りで明らかになったことになる。

 カーティンは最近、朴普煕から、朴がKCFFIの初期資金調達の郵送費を財政的に支援することを知ったと述べた。朴はまた、ワシントンD.C.の韓国大使館広報室に連絡したことをカーティンに伝え、住所録プレートをKCFFIの最初の資金調達活動のメーリングリストとして利用できるようにすることに同意したと伝えた。カーティンは、この韓国広報サービスのメーリングリストには3万人から4万人の名前が登録されているため、これはかなり大きなメーリングリストであると説明した。 このメーリングリストは、Richard Viguerie and Company, Incorporated が管理するメーリングリストに加えて使用される。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 つまり、朴がKCFFの最初の資金調達をする際に、民間の名簿に加え、韓国大使館の所有する名簿を利用したのではないかという疑惑である。

 「住所録プレート」と訳しているが、これは Addressograph という、住所・氏名を印刷するための機械で使うための金属板で、60年代まで使われていたようだ。

 また、リチャード・ヴィゲリーについても書かねばならない。彼こそは有権者に寄付を募るダイレクトメールを送る、現在まで続く政治ダイレクトメールの先駆者であり、ちょうどフレイザー委員会が開かれていた1977頃にKCFFに雇われていた。当時、『アジア児童救援基金』という名目で寄付を募ったが実際に使われたのはわずかで、残りがKCFFの活動に充てられたではないかという疑惑があった(当時現在進行系の案件だったためか、フレイザー委員会では触れられていない)。また、1980年代は朴普煕がヴィゲリーの会社の維持に金をつぎ込む代わりに、ヴィゲリーは統一教会のフロント組織であるアメリカ自由連合のメーリングリストや、ワシントン・タイムズなどの勧誘ダイレクトメールのために働いた。そうした朴とヴィゲリーの接点はここから始まっていたわけである。

 ダーウィンスキー:メーリングリストを作成する際に大使館から支援を受けましたか?
 朴:一度あなたのスタッフに「はっきりとは思い出せない、はっきりした記憶はない」と申し上げましたが、このダイレクトメールコンサルタントは、韓国と何らかの関係がある、あるいは共産主義者と闘っている者のいくつかのリスト、つまり私たちがずっと探していた2種類のリストも勧めていたので、その可能性は非常に高いです。
 論理的に、私たちは韓国大使館の広報局が発行する韓国出版物のメーリングリストについて考えました。おそらく私はそこに行き、大使館の配布リストを一度限りレンタルしてもらえないかと尋ねました。私たちがそれを入手して使用したかどうか、お金を払ったかどうか、これらのことはすでに商業的に話しており、商業的に利用可能な他のすべてのリストについてはわかりません。全く覚えていません、委員。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 朴は誤魔化しているが、大使館の所有する個人情報を借りられるような組織(証拠はない)が、韓国政府と関係ないなどと言えるのだろうか。

 また1970年9月、ROFAの米国からの寄附者に対し、朴正煕大統領のサイン入り感謝状を韓国政府経由で送ったことについて、

 朴:朴大統領の書簡では、ラジオ・オブ・フリー・アジアのために金銭を要求することは一度もありませんでした。それは単なる自由への支持を表明する礼儀正しい手紙でした。 私たちはすでにアイゼンハワー大統領の証言の手紙、トルーマン大統領の手紙、上院議員、下院議員、支持者、そしてハリウッドの有名人たちからの手紙を何度も送ってきたので、私は、これは自由を求める市民ラジオであるゆえROFAはあらゆる階層から支援を受けるに値する、という強い確信を持っていました。

 しかし、ご存知のとおり、基本的なお祝いの手紙や推薦状には、お金をくれたことに感謝はしていますが、お金についての言及は見られません。もちろん、ロビー活動などの意図は微塵もありません。私がこの勧告を大統領警護室長の朴鐘圭を通じて朴大統領に伝えたところ、彼はこの大義に心から同情し、この善良な大義を支援する用意があるとのことでした。私は彼の側近を通じて、この目的を支援するよう彼に懇願しましたが、財団の財政的支援は求めませんでした。
 したがって、これが募金活動の手紙ではないことを明確にさせていただきます。私はこれが韓国と米国の両国間の関係をより緊密にするのに役立つと正直に信じていました。朴大統領にいかなる批判も浴びせたくなかったので、私は細心の注意を払いました。自分のしていることは正しいことだと絶対に確信したかったのです。
 そこで私は、私たちの計画を支持してくれた有能な米国上院議員を通じて、国務省の意見を求めました。彼は大丈夫だと私に保証してくれました。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 この上院議員とは誰か?

米国上院、
軍事奉仕委員会、
ワシントン D.C.、1970年11月6日
朴普煕中佐
ワシントンD.C.
 親愛なる朴中佐 :国務省の儀典課は、国家元首が米国の国会議員や民間人と直接儀礼的な接触をすることに儀典違反はない、と私に強く告げている。実際、そのような接触は国際的な信頼と理解を向上させる手段とみなされている。もちろん、議会の投票や内政に干渉しようとする試みがあれば、それは儀典違反となるが、現在の状況では間違いなくそうではない。
 朴大統領に改めて、私の心からのご多幸をお祈りするとともに、韓国がラジオ・フリー・アジアで果たしている役割に感謝の意をお伝え願いたい。私は、あらゆる政治的信念を持ったアメリカ人がこの素晴らしい事業を奨励し、支援していることを承知している。
 今後ともよろしく。
 敬具
 ストロム・サーモンド

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 同年、日本武道館で行なわれた世界反共連盟(WACL)世界大会に出席したストロム・サーモンドである。すなわち統一教会と関係にある議員のお墨付きに、何の意味があろう。

◎池田文子をめぐる謎の金の流れ

 ダーウィンスキー:梁斗元がKCIA職員だったとき、彼があなたに何かメッセージや指示を与えたことはありますか?
 朴:彼が?
 ダーウィンスキー:ありますか?
 朴:いいえ。
 ダーウィンスキー:梁斗元からのメッセージや指示を覚えていないのですか?
 朴:いいえ、委員。私は覚えていません 。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 元KCIAワシントン支局長で、アメリカにおける韓国の秘密工作の元締めであった李相鎬(イ・サンホ)、本名・梁斗元(ヤン・ドゥウォン)に関する質疑で、一旦は否定したものの、

 フレイザー:中佐、以前の質問に戻りたいと思います。梁斗元を知っているかと尋ねられました。 あなたはそうしたことを認めています、そうですか?
 朴:何とおっしゃいました?
 フレイザー:あなたは先にダーウィンスキー委員から梁斗元を知っているかと尋ねられました。
 朴:はい。
 フレイザー:あなたは彼を知っているとおっしゃいましたか?
 朴:私は彼のことを知っていました。
 フレイザー:彼がKCIA職員なのはわかっていましたか?
 朴:はい、委員長。
 フレイザー:[ダーウィンスキー委員からも]質問されましたが、彼はあなたに何かメッセージや指示を与えたことはありますか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:あなたの答えはノーですか?
 朴:はい。
 フレイザー:総額3,000ドルを送金したことがありましたか?
 朴:はい。それは指示ではなく、韓国大使館を通じて私が受け取った手紙です。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 隠しきれないと判断したのか、言い訳がましいことを言って認めた、梁斗元から朴普煕へのメッセージとはなにか。
 此処から先は『フレイザー報告書』(和訳版)70〜71ページに端的に書かれているのでそちらも参照していただきたいが、 前回触れた1974年10月の国連前断食デモにおける中心人物だった「日本人妻自由往来実現運動本部」代表・池田文子と、この出来事がきっかけで接点を持つようになった(と思われる)韓国政府、そして朴普煕との、三者を巡る奇妙な動きが小委員会で明らかにされた。ここでは『報告書』で書かれなかった事柄を書いてゆきたい。

 朴:……[金相根(キム・サンクン)]は私に電話して、届けたい手紙があると言いました。そこで私は彼に、バージニア州マクリーンの私の自宅に来てほしいと頼みました。私は彼の前で手紙を開けました。……[手紙で梁]は私に個人的なお願いを引き受けてくれないかと尋ねていました。
 書簡には、韓国の主要都市で反共主義の大衆集会があったと書かれていました。どうやら韓国政府が日本からゲストスピーカーを招いたようです。講演者の一人はたまたま日本から来た女性で、たまたま統一教会の信者でもありました。
 韓国政府は、多額の費用がかかることを承知していたため、彼女に渡航費、ホテル、交通費、航空運賃などを支払いたいと考えました。
 しかし、彼らが払い戻しについてこの女性に話を持ちかけたところ、彼女はきっぱりと拒否しました。そのため、梁氏は彼女に費用として金銭を受け取ってもらえないと述べていました。そこで梁氏は私を呼んだのです。同封されていたお金をこの女性に取り次いでほしいとのことでした。小さな封筒が入っていて、それを開けると現金3,000ドルが入っていました。私に…手紙を届けた金氏が内容を知っていたかどうかは覚えていません。
……数か月後、私が韓国へ戻ったとき、私はその日本人女性に電話して、韓国へ来て会いに来てほしいと頼みました。彼女がやって来たので、私は彼女にそのお金を適切な経費として受け取るように頼みました。私は日本へ出発する前に、梁氏に電話してお金を受け取った旨を知らせるように彼女に言いました。私は彼に電話しませんでした。[この件で]私が彼に会ったことはありません。これで話は終わりです。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 先に「隠しきれない」と書いたのは、朴普煕に手紙と金の入った封筒を持ってきた金相根こそが、この話の情報源と考えられるからである。金は、KCIAによる一連の対米工作の責任を押し付けられるのをおそれ、1976年11月に米国に亡命していた。まさに当事者しか知らない情報であったのだ。

 しかし、この朴の証言を読んでも奇っ怪である。なぜ、KCIAは梁斗元から朴普煕へというアメリカ・ルートを使って、日本にいる池田文子への弁済を依頼したのか? なぜ、朴普煕は日本ではなく、池田を呼びつけるようなかたちで韓国で落ち合い、金を渡したのか?

 この回の聴聞会はここ迄である。だが、次の聴聞会までの間に、池田文子事件は新たな展開を見せる。

〈二〉につづく。


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