『フレイザー報告書』こぼれ話(18)

 引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言人物一覧

○朴普煕(パク・ボーヒ)……統一教会教祖・文鮮明(ムン・ソンミョン)の最側近のひとり。韓国文化自由財団(KCFF)会長。
○ジョン・M・ブレイ……弁護士。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長。
○ハワード・T・アンダーソン……同小委員会スタッフ(調査員)。

『朴普煕聴聞会』を読む〈二〉

 1978年4月11日、統一教会教祖・文鮮明の最側近のひとりである、朴普煕 に対する2回目の聴聞会が開かれた。前回、朴が長々と自分の声明を喋ったので、尋ねるべき質問が聞けなかったためである。

◎朴普煕独演会再び

 公聴会の前日、ブレイ弁護士は国際機関小委員(いわゆるフレイザー委員会)の上部委員会である国際関係委員会のザブロッキ委員長宛に抗議の書簡を出していた。聴聞会の内容がまたしても新聞にリークされ、それも曲解するような内容であること、また、朴の聴聞会に合わせて作った700ページ弱の付録冊子に誤りがあるにも拘らず、あたかも事実であるかのように掲載されるのは不当である、という中身である。

 ブレイ:この種の資料、すなわち道徳的不当を主張する問題について掲載された見出しを考慮し、私は、基本的な良識があれば、この最初の機会に、朴中佐が、少なくとも一部の新聞社が本書の内容に関する記事を掲載する際、委員会の他のすべての質問を覆い隠すような、これらの事柄の否定をおおやけに登録することを許可されるよう、要求したいと思います。宗教指導者としての朴中佐の立場を考慮すると、これらの問題は彼にとって極めて重要です。それらはここにいる彼の家族にとって非常に重要であり、優先順位は、彼がいま抗議することを許可されていることを明確に示していると思います。
 フレイザー:彼の声明はどれくらいの長さで、何ページありますか?
 朴:27ページありますが、時間を節約するために重要な部分だけを紹介します。時間の要素は理解します。しかしながら、委員長、私の気持ちを述べる機会を与えていただきたいと思います。
 フレイザー:中佐、ちょっと言わせていただきますが ——
 朴:はい。
 フレイザー:あなたの発言全体を記録の一部として残していただければ幸いです。約15分であなたのおっしゃりたい要点をカバーできると思いますか? それは出来ますか?
 朴:委員長、ぜひ努力してみます。はい、必ずやってみます。1秒だけ待ってください。
 先ほど申し上げましたが、これは私の抗議の気持ちと、あなたへの嘆願だけではありません、委員長。また、私は米国政府の階級に存在する陰謀の新たな証拠を明らかにしたいと思います。この補足は1978年3月15日に発行されましたが、皆さんのご協力のおかげで、その2週間で私たちはこのことを知ることができました。アメリカ国民は知っておくべきだと思いますし、私も国民に説明するとともに、今朝、今日の午後にここに自分の気持ちを伝えねばなりませんので、15分で終わらせたいと思います。試してみます。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 あー喋らせちゃ駄目なのに〜。またしても朴普煕は長々と喋りだすのだ。
 箇条書きにしてみる。

●前回の聴聞会で記憶のかぎり誠実に答えたにもかかわらず、小委員会は自分を嘘つき扱いするべく、証言のリークや誹謗中傷をしている。
●英語が母国語で無い自分が英語を母語とする百戦錬磨の弁護士などからなる調査チームと弁論で競い合わされるのは不公平であり、今回は当方の弁護士と相談した上で回答していく。
●KCFFの活動が妨害されたり、ROFAが潰されたのは国務省の陰謀であることが付録文書から明らかになった。当然、自分も国務省の策謀の被害者だ。
●コリアゲートのせいで韓国人のみならずアジア人がみな偏見に基づき苦しんでいる。
●小委員会の付録に収録された不正確な情報のせいで統一教会はセックス教団扱いされ、文鮮明は性犯罪で逮捕されたかのように書かれている。これらは間違いである。教団は魔女狩りにあっている。

 かくして、この日の聴聞会も朴の演説に長々と費やされた。やってることは前回の聴聞会での声明と大して変わらない。しかも、

 フレイザー:中佐、15分をかなり過ぎました。
 朴:はい、委員長。お願いします、終わらせてください。あと数ページです。私はぜひ最後までやり遂げて、アメリカ国民に語りたいと思っています。
 フレイザー:あなたは何ページ目を参照していますか?
 朴:私は6ページ目について話しています。
 フレイザー:中佐、申し訳ないですが、それにはさらに12分かかります。前回の聴聞会では、記録を確認したところ、あなたの冒頭陳述に時間の半分が費やされました。
 朴:特にーー
 フレイザー:あなたが報道機関にコピーを公開したことは承知しています。私たちは声明全体を記録に残します。
 朴:私はここにもっと長く滞在したいのですが、委員長、真夜中まででもいいです。あと5分お時間をいただいて、話を続けて終わりにさせていただきます。特に、この声明の最後の部分は私にとって感情的に非常に重要です。なぜなら、それは私の道徳的人格と私の指導者である文師に対する誹謗中傷に関わるからです。あなたとアメリカ国民に何も言わずに続けるわけにはいきません。5、6分だけ時間をください。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 声明を読み続けるか、打ち切るかをスッタモンダした挙げ句、押し切られる形で全部読み上げられてしまう。いやはや。

◎池田文子をめぐる謎の金の流れ(続)

 前回(3月22日)の聴聞会では、朴普煕、「日本人妻自由往来実現運動本部」代表・池田文子、そしてKCIAを巡る奇妙な金と人の流れを委員会は追求した。今回も引き続き追いかけるが、まず前回の聴聞会で判ったことを前回書きそびれたことを含め、まとめておく。

 まず3月22日聴聞会での朴普煕の証言。

 フレイザー:手紙とお金は外交用のポーチに入っていましたか?
 朴:そう推測します。私は彼に尋ねませんでした。金相根氏は、切手も貼らずに直接私に届けてくれたので、おそらく外交ポーチを通して届けられたものと思われます。
 フレイザー:そのお金は特定の単位のものでしたか?
 朴:100ドル札で、はい。
 フレイザー:それは100ドル札30枚ですか?
 朴:はい。
 フレイザー:これが韓国政府の通常のやり方なのでしょうか?
 朴:わかりません、委員長。私は大使館にいる間、一度も現金を扱いませんでした。
 フレイザー:これが初めての機会でしたか?
 朴:はい。
 フレイザー:この配送を完了するには、韓国か日本に行かなければならないことを彼らは理解していましたか?
 朴:いいえ。彼らはどれくらい早くそれをすべきかについては指定しませんでした。もちろん、私は理由は必要ありませんでした。それほど緊急の用事ではなかったので、韓国への旅行が来るまで、おそらく数か月まで待っていました。それで、旅行を組み合わせて、旅行中に用事を済ませました。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 外交ポーチ(外交公嚢(のう))とは、

外交上の書類または外交使節団が公の使用のための物品を入れる封袋で,外交封印袋ともいう。接受国は,使節団の自由な通信を許し,かつ保護する義務を負っている。このため外交公のうは開き,または留置できないものとされている。

コトバンク・ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典

 当然ながら現金もポーチに入れて、中身を知られずに運ぶことが出来る。すなわち、「見られてはいけない」金であったといえる。

 フレイザー:あなたはその女性に韓国政府を代表してスピーチをするよう依頼しましたか?
 朴:私はそうしませんでした。それはすでに起こっていました。それは当時としては達成された偉業でした。
 フレイザー:集会は1976年のいつ頃だったと思われますか? 一年のうちどの辺りでしょう?
 朴:集会は春の天気の良い日に開催されたはずです。しかし、よくわかりません。
 フレイザー:集会は春に開催されましたか?
 朴: そう推測します。
 フレイザー:それは韓国でですか?
 朴:はい。
 フレイザー:このお金を彼女に渡したいといつ連絡されましたか?
 朴:おそらくずっと後、その秋のどちらかでしょう。
 フレイザー:それは次の秋でしょうか?
 朴:はい。
 フレイザー:で、いつ韓国に旅行しましたか?
 朴:おそらく翌年の1977年です。
 フレイザー:1977年に韓国に行ったときのことを覚えていますか?
 朴:私はこの一年、頻繁に韓国に帰りました。私のパスポートには、韓国への帰国がたくさん記録されています。いつその用事をしたのかは分かりません。どの旅行でそんなことをしたのか分かりません、委員長。
 フレイザー:金相根が1976年の秋にあなたにお金を届けたと思いますか?
 朴:金相根氏がお金の入った封筒を私に届けてくれましたが、正確な記憶がないので時期は言えませんが、事実は事実です。
 フレイザー:金相根は1976年11月に米国に政治亡命を求めました。それで間違いありませんか?
 朴:はい、そう思います。
 フレイザー:彼がここに政治亡命を求めた後、あなたはこの要請を実行したのですか?
 朴:おそらく彼の政治亡命の数か月前だったと思います。当時、彼は韓国大使館で一生懸命働いていました。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年3月22日)

 次に朴に現金と手紙を渡した元韓国大使館員(でKCIA職員)の金相根の証言を見てみよう。

 フレイザー:1975年の夏に、李相鎬(イ・サンホ)としても知られる梁斗元(ヤン・ドゥウォン)氏から、朴普煕(パク・ボーヒ)中佐に届ける手紙が含まれた封書を受け取りましたか?
 金:はい。
 フレイザー:朴中佐に手紙を届けましたか?
 金:はい、そうしました。
 フレイザー:朴中佐はあなたにその内容を説明しましたか?
 金:はい ; 彼は手紙に書かれていることの一部について私に話してくれました。
 フレイザー:彼はあなたに何と述べられたのですか?
 金:彼は、梁斗元が統一教会の信者である日本人女性に旅行資金を送ってほしいと頼んだ、と述べました。
 フレイザー:彼はなぜそのお金が彼女に行くのか言われましたか?
 金:彼は取引の理由については明らかにしませんでした。
 フレイザー:朴中佐はその女性の名前をあなたに教えてくれたのですか?
 金:はい、彼はその女性の名前を教えてくれましたが、今はその名前を覚えていません。
 フレイザー:封筒には手紙の他にお金が入っていたか知っていますか?
 金:はい。
 フレイザー:手紙の残りの部分が何と言っているか知っていますか?
 金:いいえ、私は存じません。
 フレイザー:その手紙はどれくらいの長さでしたか、覚えていますか?
 金:おそらく1~2ページではなく、最大で5ページくらいだったと思います。
 フレイザー:手紙の中の旅費について書かれた部分を見ましたか?
 金:はい、それは正しいのですが、航空運賃の支払いを助けるためだったのか、それとも全般的な旅費を助けるためだったのかはわかりません。正確には覚えていません。
 フレイザー:旅費に関する手紙の部分は手紙の長い部分でしたか、それとも短い部分でしたか?
 金:私は実際にその文章を読んだわけではありません。朴普煕氏はその旅費について私に話してくれました。朴普煕氏は私にその部分の一節を読んでくれたか、あるいは読みながら言い換えたのかもしれません。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1978年6月6日)

 金が梁斗元からの手紙を渡した年が1975年か76年か、というのは『フレイザー報告書』でも特定できていない。

 前回とここまでの証言からわかる、金の流れをまとめてみよう。

①KCIAは外交ポーチで、現金3,000ドルと元KCIAワシントン支局長・梁斗元(ヤン・ドゥウォン)の直筆の手紙をワシントンの韓国大使館へ送る。
②大使館員でKCIA工作員の金相根は、朴普煕の自宅までやってきて、現金と手紙を渡す(金は手紙の中身を具体的に知らない)。手紙には朴の手から池田に現金を渡す旨の依頼が書かれていた(ただし手紙の所在が不明なため、本当にそう書かれていたかはわからない)。
③朴は長期間寝かす。
④朴が韓国へ向かった際、池田を韓国へ呼び出し、朴から池田へ現金を渡す。

 それにしても、前回も述べたが、なぜ梁斗元はわざわざ韓国からアメリカにいる朴に金を渡し、かつ朴から、日本にいる池田に渡させるような面倒なことをしなければならなかったのか。池田が報酬の受取りを拒否していたという証言を仮に信じたとしても、そして同じ外交ポーチを使うにしても、在日韓国大使館に送ってから松濤にある日本の統一教会経由で渡してもよかったはずだ。すなわち、渡す相手は朴普煕でなければならなかった理由があった、と考えるべきであろう。

 ここで想起されるのは朴普煕が主導しているKCFFの存在だ。前回、KCFFの業務プロジェクトのNo.2に『講演者局』があったのを覚えておられるだろうか? これは反共宣伝のため、著名人に講演してもらうためのマネジメント業であった。つまり、韓国政府の依頼による池田の講演を仕切っていたのは「池田の講演は知らなかった」ととぼけた朴普煕自身であり、そうであるならば、金を渡すのが朴である合理的な説明がつく(朴の言い訳では、梁斗元は池田がアメリカに帰ったものと思っていたのでは等々としているが)。

 そうなってくると、梁斗元直筆の手紙が出てこない以上、朴に渡された現金3,000ドルが全額池田に渡った可能性すらあやしくなってくる(そもそもそれが池田のギャラだという証拠はどこにもない)し、朴が訪韓の際に池田を呼び寄せたことも疑わしい。なにしろ、池田に渡してくれと書かれていたと言っているのは朴普煕だけだから。

 以上の推察を踏まえつつ、今回の聴聞会を見ていこう。朴普煕の長々とした演説を聞かされうんざりしていたであろうが、気丈にも質問を繰り出していく。

 フレイザー:3月22日の休会前、あなたは元KCIA職員・梁斗元からの手紙で3,000ドルを受け取った状況について証言していました。あなたは、その手紙を見つけることができれば、そのコピーを小委員会に提供するとおっしゃいました。手紙は見つかりましたか?
 朴:いいえ、議長、その手紙は見つかりませんでした。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 前回に引き続いて見つからなかった、ということはあっても見せられない内容だった可能性はある。

 フレイザー:本日、求められていたようにパスポートを持ってきましたか?
 朴:はい、パスポートを持ってきました。
 フレイザー:パスポートの記載から、いつ日本人女性にお金を渡したかわかりますか?
 ブレイ:委員長、朴中佐はパスポート以外の情報にも言及するのではないかと思います。
 フレイザー:もし彼が自分を助ける情報を持っているのであればーー
 朴:その質問にお答えするには、もっと良いことがあります、 委員長。これは【提示する】東京発AFPの電信であることを示しています。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 ここで出してきたのは、池田文子が日本時間4月10日に開いた記者会見について書かれたAFP通信の記事であった。

 4月10日、東京 ― 東京を拠点とする在北朝鮮日本人女性の訪日促進団体のトップリーダー、池田文子氏は本日、1976年に在米韓国人を通じて韓国政府から3,000ドルを受け取ったと認めた。
 彼女は東京の日本外国特派員協会(FCCJ)で記者団に対し、韓国文化自由財団の理事である朴普煕氏による3月22日の米国議会証言に言及しながら、次のように明らかにした。彼は韓国中央情報局(KCIA)から現金3,000ドルを受け取り、それをソウルの統一教会の日本人信者に渡した。
 北朝鮮引揚者日本人妻人権協会の池田会長は「私は朴普煕さんから3,000ドルを受け取った者です」と語った。
 池田夫人の説明によれば、統一教会米国支部の職員でもある朴氏は1976年2月4日、ソウルまたはその近郊のリトルエンジェルスクールで、韓国政府からのお金として3,000ドルを池田夫人に手渡したという。
 池田夫人は、1975年の旅費だと思い受け取ったと述べ、その申し出を断る理由はなかったと述べた。彼女は、北朝鮮からの約500万人の難民によって結成された越南以北五道民協会の招待で、1975年11月12日から19日まで韓国の4か所で演説した。
 池田夫人は、自分がKCIAの工作員であるという報道をきっぱりと否定し、「私は統一教会とはなんの関係もありません」と付け加えた。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会提出資料8

 さて、先程の朴普煕や金相根の証言と比較しても、時期がおかしい。証言した順に並べると、

 朴は1976年春に池田の講演が行なわれ、同秋に梁斗元から手紙を受け取り、1977年秋に韓国で池田に現金を渡したとしている。
 一方、池田は1975年11月に講演を行い、翌年2月に渡されたという。
 更に金は、1975年夏に梁から現金と手紙を受け取ったという。 
 果たして誰が正しいのだろうか? 

 朴:この声明に、3,000ドルに対する私の最後の答えを付け加えたいと思います。私は用事だと言いました。私は友人のために用事を済ませただけで、もちろんKCIAや政府ルートからは一銭も受け取りませんでしたが、これで私が嘘つきではないという証拠が得られ、そして、あなたのスタッフの何人かは、前回の証言の後、ワシントン・ポスト紙に、朴中佐の証言は説得力がないと語ったそうです。どうやら私の証言が虚偽で信頼性が低いと言及または発言し、この3,000ドルを騙そうとしているのは間違いありません。
 今では委員会と天と地は私が真実を語ったことを知っており、委員会はその発言について私に謝罪する義務があると思います。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 などと朴は胸を張っているが、既に見たように時期についての証言が大きく異なっている点を見れば、「説得力がない」だろう。

 フレイザー:あなたが私たちにくれたこの報道声明によれば、池田夫人は統一教会とは全く関係がないと述べています。
 朴:それは彼女が言ったことです。
 フレイザー:それはあなたも理解していますか?
 朴:いいえ、彼女は統一教会の信者だと思いました。彼女はとても良い人で、統一教会員はみんな良い人だといつも思います。【笑い】
 しかし、どうやらそうではありません。
 フレイザー:前回ここに来たとき、あなたは「講演者のひとりはたまたま日本から来た女性で、たまたま統一教会の信者でもありました」とのように証言したと思います。あの時、あなたは間違っていました。そうですか?
 朴:はい。
 ブレイ:すみません、委員長。彼が間違っていたのは、この事件当時、彼女がそうだと正直に信じていたことですか、それとも前回そう証言したのが間違っていたのですか?
 フレイザー:前回、彼が彼女がたまたま統一教会の会員だったと私たちに話したとき、彼女はそうではないと主張しているため、彼はもはや彼女が統一教会の会員であるかどうか確信が持てないと私は理解しています。
【しばしの間】
 朴:私は単純に、手紙とお金を届けてほしいという手紙が、あなたの教会の会員である誰々であると言っているからだと思い、当然のことだと思っていましたが、彼女はそうではありませんでした。そうですね、誤解を招くつもりはありませんでした。私は当時の自分の能力または記憶の限りを尽くして証言しました。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 一転、しょげる朴普煕の姿が目に見えるようだ。

 若干の休憩後、小委員会調査チームのアンダーソン調査官が質疑に立ち、引き続き池田女史のことを尋ねた。

 アンダーソン:あなたの証言で私が理解できるのは、あなたがこの女性のことを何年も前からよく知っているということです。あれは正しいですか ?
 朴:はい 。
 アンダーソン:先週の冒頭陳述によれば、あなたは1957年以来統一教会の会員です。あれは正しいですか?
 朴:そうです。私は、です。
 アンダーソン:あなたは池田夫人と知り合ってから何年もの間、彼女が統一教会の信者であるか、あるいは統一教会と何らかの形で関係しているかどうかを知っていましたか?
 朴:前回この委員会で証言したように、3月22日までは彼女が私たちの教会の信者であるとわかっていたと思っていました。
 アンダーソン:彼女と話してそう知っていましたか、それとも他の情報源からそう理解していましたか?
 朴:ええと、私たち東洋の生活様式では、当然そう思いますがーー
 アンダーソン:すみません。私が知りたいのは、あなたが証言したように、彼女が実際に統一教会の信者であることをどのようにして知ったのか、あるいはどのようにしてそのような印象を受けたのかということだけです。
 ブレイ:彼はそれに答え始めていると思います。
 朴:はい。ご存知のように、彼女の夫は韓国人です。彼女には韓国人の夫がいて、私は彼、趙さんのことを知っていたと思うし、彼が私たちの教会の信者であることもすでに知っていたので、当然私も知っています。
 アンダーソン:池田さんの夫である趙さんとはいつから知り合いですか?
 朴:ご承知のとおり、私は15年も国を離れており、韓国を出たり入ったりしていたので、趙さんのことを知っている以外、実際に趙さんのことを知る機会はありませんでした。
 アンダーソン:軍隊にいた頃から彼のことを知っていましたか? 学生時代に彼のことを知っていましたか? 彼をどのようにして知りましたか?
 朴:お答えしかねます。いつ、どのようにしてかわかりません。
 アンダーソン:趙さんの職業が何か存じてますか?
 朴:いいえ、私は存じません。
 アンダーソン:彼の職業が何なのか存じ上げないと?
 朴:はい。
 アンダーソン:池田夫人のことは何年も前から知っているのに、彼女の職業をご存知ない?
 朴:はい。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 さらに驚くべきことに、前回の聴聞会(3月22日)から今回の聴聞会(4月11日)の間に、池田文子がニューヨークにやって来て、朴普煕と会っているのだ。

 朴:前回の証言ーーあれは3月22日ではなかったでしょうか?ーーのあとです。私は自分のことをはっきりさせたかったので彼女に話し、真実は彼女との直接のコミュニケーションによって得られました。したがって、委員長、当時はあれが私の最善の記憶でした。私に何が出来ましょうか? 持てる限りのものをあなたに差し上げるしか私には出来ません。
 フレイザー:前回の聴聞会の後、日本にいる彼女に電話したということですか?
 朴:はい。実は彼女はここを訪れていたのです。
 フレイザー:彼女はここにいましたか?
 朴:はい。
 フレイザー:先月以内ですか?
 朴:3月22日から現在まで。
 フレイザー:彼女はここにいましたか?
 朴:彼女はここにいて、この委員会で何が起こっているのか知りたかったのです。もちろん、それはニュースです。
 委員長、その特別なニュース、3,000ドルは、私は好意でやりました。そうです。日本中の大きなニュースになりました。これは多くの人々の評判を台無しにしています。なぜなら、彼らは説明もせずにKCIAから金を受け取ったというだけの見出しを作っているからです。
 フレイザー:ただし、あなたが人の評判を傷つけないように彼女の名前を言わない細心の注意を払っていたことを除いては。聴聞会の時、彼女はここ米国にいましたか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:彼女はその後ここに来たのですか?
 朴:はい。
 フレイザー:彼女はいつ到着しましたか?
 朴:日付は分かりません。
 フレイザー:彼女がアメリカに来てから初めて彼女と話したのはいつですか?
 朴:見てみましょう。
【しばしの間】
 おそらくカレンダーがあれば日付が分かるかもしれません。
 フレイザー:公聴会の後、あなたは彼女に米国に来るよう勧める連絡をしましたか?
 朴:それは彼女自身のためでした。彼女が来たのは、日本における彼女の名誉が非常に重要だからです。
 フレイザー:なるほど。
 朴:そこで彼女は日本における自分の立場を明確にしたかったのです。彼女は知りたかったのです。
 フレイザー:中佐、彼女が最近米国に来る前に彼女と話をしましたか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:彼女に電話をかけませんでしたか?
 朴:いいえ、いいえ。
 フレイザー:何らかの方法で彼女と連絡をとりましたか?
 朴:いいえ ; 電話でやったことは一度もありません。 私はニューヨークで彼女に少し会ったので、この委員会で何が起こったのかを説明しましたし、あなたが何をーー
 フレイザー:大佐、どうして彼女がニューヨークにいると分かったのですか?
 朴:まあ、ツテがありますから。
 フレイザー:ニューヨークで彼女に会う前に、彼女からあなたに、或いは、あなたは彼女と連絡を取っていましたか?
 ブレイ:委員長、朴中佐とこの女性との直接の通信について質問しているのですか? それとも、他の人を介したコミュニケーションも含まれますか?
 フレイザー:私は本当に何が起こったのか知りたいだけなのです。
 ブレイ:それはわかっていますが、私にとっては意味のある「直接的または間接的にコミュニケーションする」という一般的なフレーズの使用は、朴中佐にとっては意味がないかもしれませんが、説明のために使用することをお勧めします。
 フレイザー:もう一度やり直しましょう。
 中佐、前回の聴聞会から彼女がニューヨークに到着するまでの間に、彼女と直接または第三者を介して間接的にコミュニケーションをとりましたか?
【そこで、朴中佐はブレイ氏と協議した】
 朴:彼女は私に電話をかけてきました。 彼女は、この委員会と3月22日の聴聞会についての真実を知りたかったのです。
 フレイザー:彼女はいつあなたに電話しましたか?
 朴:私は覚えていません。それはわかります。
 フレイザー:おおよそで。前回の公聴会の直後でしたか?
 朴:はい 。
 フレイザー:数日以内に?
 朴:はい 。
 フレイザー:それで彼女は日本からあなたに電話しましたか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:彼女はどこにいたのですか?
 朴:彼女がニューヨークに到着した後です。
 フレイザー:ほお、彼女はニューヨークからあなたに電話しましたか?
 朴:はい。
 フレイザー:では、あなたが知っている限り、彼女はあなたと何の連絡もなしにニューヨークに来たのですか?
 朴:いいえ、彼女とは事前の連絡はありません。
 フレイザー:彼女はニューヨークに来て、それからあなたに電話したのですか?
 朴:はい。
 フレイザー:その旅費は誰が支払ったのですか?
 朴:わかりません。
 フレイザー:それからあなたと彼女は電話越しに訪問し、何が起こっているのか彼女に説明しましたか?
 朴:いいえ、ニューヨーク・ヒルトンに行ってーー
 フレイザー:ニューヨークで彼女に会う約束をしたんですか?
 朴:はい。
 フレイザー:で、あなたは彼女に会うためニューヨークを訪れましたか?
 朴:はい。
 フレイザー:それでは、あなたが知っている限り、彼女は何をしましたか?
 朴:彼女はすぐに日本に戻り、プレスリリースを準備したそうです。それはホットなニュースとなり、彼女の偉大な業績と名誉が危険にさらされていたため、彼女はすべてを明らかにしたいと考えました。どうやら彼女はそうしたようです。これが私がニュースメディアを通じて得た結果です。
 フレイザー:まさに、彼女は日本に帰国してこの声明を発表した、と。
 朴:どうやら。
 フレイザー:あなた方は話し合いましたかーー
 朴:私は彼女自身の声明を読みませんでした。私はメディアを通じてしか知りませんでした。
 フレイザー:彼女が声明を発表するという考えについて話し合いましたか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:あなた方は話し合いをーー
 朴:私は委員長、あなたに正直に述べたことを彼女に伝えました。そして彼女は直接情報を得るために来たので、どうやらあることをする決心をしたようで、戻って行きました。
 フレイザー:あなたは委員会に述べた内容を彼女に話しました。そうですか?
 朴:はい。
 フレイザー:それで彼女はあなたに思い出を話しましたか?
 朴:彼女は1976年2月4日という日付を教えてくれたので、私は正しい日付を知りました。それが[そのときに]起きたことです。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 フレイザー:彼女が米国に行く予定、あるいは米国にいる、という最初の情報は、彼女があなたに電話したときでしたか?
 朴:当時私はニューヨークにいたので、ワシントンから彼女に会いには行きませんでした。私はいつもニューヨークに行きます。私の教会の本部はニューヨークにあります。毎週末には奉仕をおこなっております。私は文師の翻訳の仕事をしているので、頻繁に旅行します。私がニューヨークの世界宣教センターに行ったとき、彼女の友人のひとりから、どうやら彼女は米国に来て、ニューヨークのヒルトンにいるという情報をもらいました。それからすぐに彼女は私に電話をかけてきました。どうやら彼女は私を探して電話しようとしていたようで、私がニューヨークに来たことを知っていたようです。
 フレイザー:そして、あなたが知っている限り、彼女の米国旅行の唯一の目的は、あなたと話すことだったのでしょうか?
 朴:思いつきません 。私には彼女の心が読めません。私は彼女の代わりに話すことができません。
 フレイザー:彼女は何か他の目的についてあなたに話しましたか?
 朴:いいえ。
 フレイザー:あなたが彼女と話した後、彼女は日本に帰ったのですか?
 朴:私はそのように理解しています。彼女がいつ、どの飛行機に乗って帰ったのかはわかりません。知見がありません。私はちょうどあなたがたとのこのセッションの準備をするため、ワシントンに来たところです。忙しかったのです。
 フレイザー:次の聴聞会の日程を彼女に知らせましたか?
 朴:はい。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 アンダーソン:ところで、この女性とニューヨークの何処でお会いになられましたか?
 朴:何処で、は言うことが出来ます。それはニューヨーク・ヒルトンでした。
 アンダーソン:ニューヨーク・ヒルトン・ホテル ?
 朴:現時点では私の記憶が十分に鮮明ではないため、それがいつなのかは今は言えません。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 アンダーソン:彼女が最近日本からアメリカに往復した旅行代金をどうやって支払ったのかご存知ありませんか?
 朴:まったくわかりません。まったく、わかりません。
 アンダーソン:そして、彼女があなたに会うためだけにその旅行に行ったのか、それとも何か他の用事があったのか、あなたは存じていない。
 朴:何も思いつきません 。
 アンダーソン:それもおわかりにならないのですか?
 朴:はい。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 池田が朴と何を話し合ったかはわからない。だが、3,000ドルの現金受け渡しの件について、アリバイの擦り合わせをしたのではないのか? と勘繰られてもやむを得ないだろう。なにせ、何から何まで覚えていない、わからないのだから。

◎政府関係者か否か?

 アンダーソン:3月22日に、フリーダム・センターが少なくとも部分的に韓国政府から補助金を受けていることを知っていた、と証言したことを覚えていますか?
 朴:はい。
 アンダーソン:フリーダム・センターをKCFFプロジェクトとして採用するという決定は、韓国大使やその他の韓国当局者との協力によってなされたのかと尋ねられました。その質問がされたことを覚えていますか?
【そこで、朴中佐はブレイ氏と協議した】
 朴:はい、わかります。あなたの質問は何ですか? あなたのおっしゃりたいことは何ですか?
 アンダーソン:証言を参照したいだけです。あなたはその時、フリーダムセンターを初期プロジェクトとして採用するというKCFFの決定が、韓国当局者の協力を得てなされたのかどうかはわからないと述べました。
 朴:韓国当局者と連携して。はい。わかりませんと言いました。
 アンダーソン:KCFFの便箋に書かれた1965年4月28日付の、KCFF副会長であるあなたからアーリー・バーク提督への手紙です。引用します:

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 当組織の取締役会の名誉会長であり、実際、我々にフリーダム・センターの支援を促してくれた、元民主共和党委員長の金鍾泌(キム・ジョンピル)氏に、私たちの真剣な意図と現在の状況をフリーダム・センターの職員に伝えてほしいと手紙を書いてください。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 フレイザー:あなたが思い出せる限りでは、金鍾泌氏に[フリーダム・]センターを促されたーーということでしょうか。私がいま尋ねているのはそれだけです。 あなたがいま思い出せる限り、その手紙は正確ですか?
 朴:そう思います。13年前に書きました。私は覚えていません。一方、フリーダム・センターを落としたのも、KCFFから葬ったのも私です。私はフリーダム・センターに一銭も渡したことがありません。 私たちは一銭も調達したり、資金を提供したりしたことはありません。それが事実です。それをボツにしたのは私です。
 アンダーソン:金鍾泌があなたのプロジェクトのひとつとしてフリーダム・センターを採用することをあなたに提案したかどうか覚えていますか? はい、または、いいえで。それを覚えていますか、それとも覚えていませんか?
 朴:ありません。ありません。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 少なくとも、アンダーソン調査官の提示した手紙が実際に書かれたものであることは認めた。朴に当時の記憶がなくとも、金鍾泌からフリーダム・センターの支援を促された可能性はあるということだ。
 では、その金鍾泌は政府関係者か否か?

 アンダーソン:金鍾泌が政府高官の範疇に属さないというのはあなたの証言です。彼がある時はKCIA長官であり、またある時は韓国首相だったというのは事実でないのですか? それは正しくないですか?
 朴:いいえ。
 アンダーソン:そしてあなたもそのことはよくわかっていますよね?
 朴:私が間違っていたことを証明しようとしましたが、先ほども言いましたが、私は当時、金鍾泌を韓国の役人とは思っていませんでした。 彼はそうではありませんでした。
 ブレイ:委員会に、あなたの本(訳註:PART4付録)の245ページに掲載されている金鍾泌の伝記スケッチを紹介してもよろしいでしょうか。それは、彼がこの手紙の日付の約4年前にKCIA長官であったことを示しており、その伝記スケッチに関する限り、 彼の公職は1964年に終了しましたが、そこでも1963年と1964年には民主共和党の党首を務めました。それが政府関係者かどうかは知りません。
 アンダーソン:彼は国会議員でもありました、ブレイさん、これは私が間違っていたら訂正できると思いますが、私の理解では、金鍾泌は少なくとも1963年まではKCIA長官でした。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 民主共和党は朴正煕(パク・チョンヒ)政権の最大与党である。その党首が全く政府と無関係というのは通らない理屈だ。

 こうした屁理屈は、朴がKCFFの構想を相談し、のちKCFF初代副会長となった、元駐米韓国大使・梁裕燦(ヤン・ユチャン)氏の当時の地位に対する質疑に関しても言える。1964年3月にKCFFは設立されるが、

 フレイザー:1964年3月における梁大使の地位はどうでしたか?
 朴:私は覚えていません。記録を確認しなければなりません。
 フレイザー:彼が韓国政府で何らかの現役の地位にあったのか、それとも引退したのかご存知でないですか?
 朴:その時期のことははっきりとは分かりません。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 ここで、アンダーソン調査官は1964年12月10日付の朴から梁裕燦に宛てた手紙を手掛かりに朴に尋ねる。

 まず初めに、韓国政府による最近の国連総会韓国代表団の特別顧問への任命に対し、これ以上適任者のないものと心よりお祝いを申し上げます。

米下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会・朴普煕関係資料

 少なくとも、この手紙以前は無役(李承晩時代の1960年に駐米大使を解任)だったようだ。

 アンダーソン:ですから、あなたが知る限り、[手紙]に記載されていることが正確ではない、少なくとも当時の梁大使は韓国政府の役人として働いていた、と信じる理由はない、と。これは正しいですか?
 朴:しかし、繰り返しになりますが、この特別な職はある意味名誉職であり、国連総会の韓国代表団の特別顧問であり、ご存じのとおり、総会の開催時間は限られていました。それは一年中あることではなく、彼は顧問として招待されました。まあ、私はそう言いました。当時、韓国政府は彼のスキルをそのように活用したようです。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 朴はあたかも梁裕燦の就いた職は大したものではないと、彼が特別顧問になったことを矮小化しようとしているが、梁がこの翌年に巡回大使(Ambassador-at-large)となり各国を廻ったことを考えれば、韓国政府は当時の梁を決して過去の人間として扱っていなかったといえよう。
 KCFFは朴普煕が切り盛りしている以上、統一教会関連組織であることは疑いない。だが、その設立経緯や活動に、韓国政府関係者(或いはかなり関係者に近い者)との人的繋がりがなかったとは言いきれないのだ。

 金鍾泌や梁裕燦の地位について、朴に質問を浴びせるアンダーソン調査官に、ブレイ弁護士は異議を唱える。

 ブレイ:すみません。質問または反論を述べたいと思います。これは15年前に遡る、ある種の記憶力テストのようなもので、率直に言って、1964年に、おそらくさまざまなキャリアを積んだ他の人物が、その特定の年に、ある特定の地位についていたかどうかを、朴氏が正確に覚えているかどうかを質問する立法趣旨が理解できません。朴中佐の記憶力を試しているのですか?

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 無論、フレイザー委員会は記憶力を試しているわけではない。朴普煕がそれを見て記憶が甦ればそれを聞き、なくても証拠資料の真正性を認めさせているだけである。なぜなら、

 ブレイ:朴氏があなたの召喚状に応じて、少し前にまさにこの文書をあなたに渡したというのは本当ではないですか?
 アンダーソン:はい、そうではありません。この文書を見て、約3週間[付録を]保持していればーー
 ブレイ:私はそれを読んでいないことを保証します。
 アンダーソン:あの、その文書とそれを含む全ての[初期のKCFF]文書の出典は、かつてKCFFのトップであったバーク提督であることが冒頭に記されていますよ。
 ブレイ:これはKCFFから事実上トラックいっぱいに積まれて提出された文書の1つではないとおっしゃりたいのですか?
 アンダーソン:これがKCFFの文書であることに疑問の余地はありません。しかし、付録を読んでいたなら、見たことがあるはずです。そして、それは非常に、非常に明確であり、あなたがこれまで知る機会がなかったとは信じられません。
 ブレイ:しかし、KCFFはこの文書を提供していないとおっしゃるのですか?
 アンダーソン:はい、私たちはこの特定の文書をKCFFから入手したわけではないと言いたいのです。

米下院・国際関係委員会・国際機関小委員会事前聴聞会(1978年4月11日)

 つまり、故意かどうかはわからぬが、朴は小委員会の求めに応じてすべてのKCFF関連文書を提出したわけではない、ということだ。
 しかし、朴普煕が前回、今回と声明で散々あげつらった『付録(製本された証拠資料集)』を、ブレイ弁護士は全く読んでいなかったのだろうか? いささか、能力に疑問を持たざるをえない。

 この回の聴聞会はここ迄である。だが、次の聴聞会までの間に、池田文子事件はまたまた新たな展開を見せる。

〈三〉につづく。


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