『フレイザー報告書』こぼれ話(14)

 引用は適宜省略している。また、[ ]カッコ内は訳者による補筆である。

発言人物一覧

○ダン・フェファーマン……自由リーダーシップ財団(FLF)評議会メンバー。1974年当時は事務局長。
○マイケル・D・ゴールデン……弁護士。
○李在鉉(イ・ジェヒョン)……在ワシントン韓国大使館元職員。米国に政治亡命し、当時はウェスト・イリノイ大学准教授(ジャーナリズム)。
○ジョン・ニデッカー……ニクソンおよびフォード政権時の特別補佐官。

○ドナルド・M・フレイザー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員長。
○エドワード・ダーウィンスキー……下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会委員。
○マイケル・ハリントン……同上。

『ダン・フェファーマン聴聞会』を読む〈後〉

 前回の聴聞会で明らかになった、韓国政府の関与が明らかにならねば追求が困難となる、という小委員会の問題点は解決されぬまま、翌週の1977年8月3日にダン・フェファーマンの2回目の聴聞会が開かれた。

 小委員会はこの日、1974年9月14日に中止された反日デモ、1974年10月におこわれた国連前での断食デモ、および1974年7月におこなわれたニクソン米国大統領支持のための断食デモについて、フェファーマンに尋ねた。反日デモに関しては(2)〜(9)でとりあげたので、残るふたつの断食デモについて書いていこう。

◎国連断食デモ

 1974年10月22日から29日までの7日間(8日間じゃないの? と思われる方もおられるだろうが、22日夜から29日朝まで、つまり厳密には「7間」を彼らはそう称している。後述の3日間断食も同じ理屈)の断食デモとは、国連総会において北朝鮮から出された、駐韓国連軍(=米軍)撤退決議案に対し、当初賛成が上回っていた情勢を覆すべく、国連広場にあるイザヤウォール前で各国代表団に見せつけたデモである(大筋は和訳版45〜47ページを参照) 。

 フェファーマン:私はその断食の準備や計画には一切関与していませんでした。その断食を支持する私の唯一の活動は、開会式でスピーチをすることでした。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 この断食デモを主催していたと思われるのが「北朝鮮帰還者の人権のためのアメリカ委員会」と称する団体である。これは池田文子が代表を務める「日本人妻自由往来実現運動本部」のアメリカ支部という位置づけなのだろうか? なお、開会式のスピーチには、池田やフェファーマンの他、ニール・サロネンFLF代表なども出席した。
 問題は、この運動に統一教会と無関係な著名人を巻き込んだ点である。例えば、「北朝鮮帰還者の日本人妻の人権に関するアメリカ委員会」の名誉会長に迎えられたのがライシャワー元駐日大使夫人・松方ハル(松方正義首相の孫娘)であったり、統一教会の出版物である『ニュー・ホープ・ニュース』には、

 断食の後、池田女史は国際赤十字の支援を求めるためにジュネーブに行きました。スイスにいる間、彼女が協会の請願書にアレクサンドル・ソルジェニーツィンの署名を得たという報告がニューヨークに届きました。彼女は現在ロンドンにいて、歴史家のアーノルド・J・トインビーに会おうとしています。

『ニュー・ホープ・ニュース』1974年11月11日

という真偽不明の記事が掲載された。また、現職・元職に限らず連邦議会議員もデモに利用された。チャールズ・パーシー上院議員や、反共主義者で有名なハミルトン・フィッシュIII世元下院議員なども運動を支持した。先述のスピーチにも、全米有色人種地位向上協会(NAACP)のバートラム・ハリスが出席していた。著名人や、統一教会(および文鮮明組織)外の組織を巻き込むのは無論、或る組織やプロジェクトは統一教会とは関係がない、と言うための煙幕である。

 ダーウィンスキー:700人の参加者の旅費や経費などを誰が負担したか心当たりはありますか?
 フェファーマン:いいえ。旅費などについて私が持っている唯一の知識は、FLFからは2人のメンバーがいたとみられる ー それすらよくわかりませんのですが ー 私が持っている唯一の知識は、私たちのスタッフから来た2人のメンバーに言及しています。彼らの交通費がどのように支払われたかさえ覚えていません。
 ダーウィンスキー:彼らはおそらく統一教会の信者でしたか? それ[『ニュー・ホープ・ニュース』]には「多くの会員」と書いてあります。私は、この言及が教会員に向けられていると推測しています。
 フェファーマン:はい 。断食の参加者のほとんどは統一教会の信者だったと思います。

 ダーウィンスキー:このプロジェクトに参加するために来た700人の個人の話に戻りますが、これらの人々はアメリカ市民でしたか、それとも非アメリカ市民でしたか?
 フェファーマン:多くは米国以外の市民でした。
 ダーウィンスキー:彼らが非市民だった場合、彼らは外国代理人登録法の下で代理人として登録されていたでしょうか?
 フェファーマン:彼らが政府の代理人として行動していたとは思えません。
 ダーウィンスキー:全国から700人のメンバーを生み出すこの特定の努力を率いたのは誰ですか? 誰がその特定の側面を率いたか覚えていますか?
 フェファーマン:いいえ、私が言ったように、私はそのデモの動員にはまったく関与していませんでした。
 ダーウィンスキー:統一教会のプロジェクトですよね?
 フェファーマン:いいえ、多くの教会員が参加したプロジェクトでした。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 先の『ニュー・ホープ・ニュース』によれば、断食デモ参加人数はおよそ700人とされているが、『フレイザー報告書』だと約600人となっている。『ニュー・ホープ・ニュース』はサバを読んでいたのだろうか?
 なお、この国連デモを主導した池田文子(=江利川安榮)は、これをきっかけとして韓国政府と繋がりを持つようになるがそれはまた別の記事で。

◎韓国大使館・領事館に浸透する統一教会信者

 ハリントン:リサ・マルティネスを知っていますか?
 フェファーマン:はい。
 ハリントン:彼女は自由リーダーシップ財団のメンバーでしたか? あるいは統一教会かのメンバーでしたか?
 ゴールデン:ハリントン議員、修正第1条の問題に直面しているかもしれません。その質問の妥当性を説明していただくか、委員会が調査している韓国問題とマルティネスさんとの何らかの関係を説明していただけますか?

 ハリントン:あなた方には不満かもしれないが、私たちには質問をする理由を少なくとも納得するよう立証できる……文書を私たちは持っています。
それは「リサ」と署名された領事文書であり、問題のリサであると我々が信じる理由があります。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 ハリントン議員が示した文書は以下のようなものであった(抄録)。

韓国総領事館、
ニューヨーク州ニューヨーク、1972年11月28日。

 拝啓、[氏名削除]様:ニューヨークから御挨拶申し上げます。リーダーの到来に向けて準備を進めているため、ここでは非常に忙しくしています。彼はついに感謝祭の日の夕方6時頃に到着し、(ウォルドーフ[・アストリア・ホテル]で科学者のために夕食会や歓迎夕食会を行っていた私たちを除いて)家族全員がファーリー[・ジョーンズ]、金[永雲(キム・ウンヨン)]女史、そしてJ兄弟とともに、私たちの指導者であるチェ夫人とキム会長に挨拶しました。私は会議の女給兼筆記者だったので、翌朝、彼と彼の一行が会議に現れるまで、私と他の何人かは彼に会いませんでした。
 リーダーはベルヴェデーレにも、キム女史にも非常に満足していますが、どちらもコメントを控えています。御母様はまだ韓国にいて、12月に来ると聞いています。
 C.U.R.E.会議が行われている間、ニクソン大統領はウォルドーフに滞在していましたが、とりわけ文鮮明の話を聞いてもらうために、C.U.R.E.は大統領を招いたものの彼は姿を見せませんでした。J兄弟の一人は、ニクソンがそこにいたという事実は、精神世界がニクソン氏を教えようとしているか、彼を原理に導こうとしている可能性があると私に言いました。また、アメリカが私たちのリーダーと団結することを表しているかもしれない、とも。面白いと思いました。
 私がこれまでに知っていることは、リーダーが昨夜ベルヴェデーレで12人のJ兄弟と話し、私たち「A」メンバーがダウンタウン・センターで家族会議を行っていたということだけです。 家族の一員である野村[健二]博士(科学者の一人)は、第2回統一科学国際会議が来年10月か11月に日本で開催されると発表し、フィリップによればリーダーはそれを承認しました。来年は間違いなく日本で開催され、彼はできるだけ多くの国からの代表者を望んでいます。
 領事館で物事は順調に進んでいます。私は領事館で興味深い人々に会い、電話で会ったばかりの人々と良い連絡を取り合っています。……領事館で働き始めて以来、私は外交関係についていくつかのことを学びました。御父様は私にこれを学ばせたいと思っているようで、私は喜んでそれを歓迎します。
 私がとても恋しい残りの兄弟姉妹に私の愛を広げてください。私たちが近く再会することが神の意志であるならば、私は祈ります。そうでないなら、私の心に特別な場所を持っているあなたへの私の愛を感じてください。

リサ

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 【註1】C.U.R.E.=Council for Unified Research and Education(統一研究教育評議会)は統一教会系組織で、「第1回統一科学関国際会議」(International Conference on Unified Science)を主催した。同会議は1972年11月23日から4日間、7ヵ国20名の科学者が「科学の道徳的方向性」について話し合い、翌年の第2回から「科学統一に関する国際会議」(International Conference on the Unity of the Sciences、ICUS)と改称。C.U.R.E. はICF(International Cultural Foundation、国際文化財団)の法人化(1973年)に伴い吸収されたものと考えられる。
 【註2】野村健二は統一教会信者で統一思想研究院初代院長。

 J兄弟、「A」メンバーとは、それぞれ日本の信者、アメリカの信者を指すものと思われる。
 在ニューヨーク韓国総領事館から、氏名を明かされなかった(おそらく脱会信者だったのだろう)宛先に送られたリサの手紙はフェファーマン側には想定外だったらしく、手紙を読むため3分ほど休憩を挟んだのち、フェファーマンは質疑に臨んだ。

 ハリントン:……この頃、[リサ・マルティネスが]韓国領事館に勤務していたのは覚えていますか?
 フェファーマン:はい。
 ハリントン:教会自体または自由リーダーシップ財団は、彼女が当時の地位を獲得するのに役立ちましたか?
 フェファーマン:わかりません 。彼女の雇用の手配に私は一切関与していない、とは言えます。
 ハリントン:彼女が就職した手段について、他に知らないのですか?
 フェファーマン:はい。
 ハリントン:彼女が領事館に勤務していたこの時期に、あなたは彼女と連絡を取りましたか?
 フェファーマン:私はしていません。
 ハリントン:ここワシントンの韓国大使館、ニューヨークの韓国領事館、または国内に領事館がある場所で働いていた統一教会または自由リーダーシップ財団の他のメンバーを知っていますか?
 ゴールデン:……他の宗教団体と同様、米国全土でさまざまな種類の仕事に従事している統一教会の信者がいます。難しいのは、彼らが現在、または過去のある時点で韓国大使館、領事館、または何らかの種類の企業で雇用されている可能性があるという理由だけで、特定の個人を統一教会のメンバーとして分類することです。統一教会や自由リーダーシップ財団の人々による、そのような雇用のための手配に関し、私はその質問の妥当性を理解することができましたが、宗教的所属によって個人を特定することは、私の見解では、修正第一条のかなり難しい領域に入ります。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 なんだかんだで答えないわけだが、実は、FLFの仲介で統一教会信者が在ワシントン韓国大使館内で働いていたという、1976年6月22日の小委員会事前聴聞会における、李在鉉(イ・ジェヒョン)ウェスト・イリノイ大学准教授の証言がある。李は韓国大使館で文化情報担当官(在米韓国広報館々長兼任)を務めたのち、1973年6月5日に朴正煕(パク・チョンヒ)独裁政権に抗議し辞職、米国に政治亡命していた。

 李:私は、ワシントンの韓国大使館内の少なくとも3人のアメリカ人秘書が、大使館のKCIAエージェントの要請で候補者を提供した自由リーダーシップ財団の推薦に基づいて雇われていたことを覚えています。

『米国における韓国中央情報局の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1976年6月22日)

 フレイザー:あなたは、KCIAの要請で自由リーダーシップ財団の推薦で雇われた、韓国大使館の3人のアメリカ人秘書について言及されました。それをどのように知ったのですか?
  李:私の事務所には秘書が必要だったので、新聞に広告を出しました。私の三行広告に応えて候補があらわれました。 私たちは候補者らにインタビューし、そのうち1人を採用しました。
 数日後、私が大使館の廊下で KCIAエージェントの1人に出くわしたとき、彼は何気なく「おめでとうございます、李博士、新しい秘書を雇いましたね」と言いました。何を言っているのか分からないくらい、さり気なかったです。 彼はただ、私とささいな話をしていたんです。
 それで私は「はい、とても素敵な秘書を見つけました 」と言いました。会話はそこで終わり、それで奇妙なことは何もありませんでした。しかし数日後、私は別のKCIAエージェントに出くわしました。今回はより具体的でした。
 彼は「おめでとうございます、あなたの事務所に新しい秘書が入りましたね」と言いました。2度も、そのうえ別のKCIAエージェントから言われて、私は彼らが何を意味しているのか疑問に思い始めました。それから彼が次のように付け加えたので、おそらく私は困惑したように見えたでしょう。
 「もしかして、彼女は自由リーダーシップ財団の出身ですか?」 私はこの組織について聞いたことがなかったので、さらに戸惑いました。私は彼に「自由リーダーシップ財団とはなんですか? 」と尋ねました。
 彼は「ご存知だと思ってましたよ。我々と非常に良い協力関係にある組織です」と言いました。
 私は「それはどういうことですか?」と言いました。
 彼は「我々が誰か必要になったとき、彼らに誰か推薦してもらいます。彼らは我々に候補者を送り、我々は彼らを採用します。 実際そうやって、現在、大使館には3人の女の子が働いています」と言いました。
 それは彼らが私に伝えようとしていたメッセージであり、私はそれを知らなかったのですが、それが当時の大使館での慣習であったことを知りませんでした。

『米国における韓国中央情報局の活動』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1976年6月22日)

 先のリサ・マルティネスの手紙について、小委員会では見過ごされたが、リサが韓国政府職員で働いていた傍ら、統一教会のフロント組織スタッフとしても従事していたというのは問題だろう。
 以上のように、FLFは合衆国内におけるKCIAの活動を人材面から下支えしていたと見られる。

◎Who is "Rabbi Korff"?

 さて、FLFと韓国大使館とのつながりの中で、初めて出てくる名前があった。まず、1974年7月16日、FLF会長ニール・サロネン宛に書かれた、サロネンの秘書であるジュディ・グリーンからのメモ書きにて、

 祝祷または「祝祷文」がコーフ祭司に提案されます。明日ジュディ・グリーンからプレスリリースが彼に届く予定です。彼女はリー・エドワーズに、彼のメディア計画についても尋ねます。私たちの目的は彼らのキャンペーンを支援することであると説明し、R.K. に情報のコピーを渡します。まだあまり知名度がないようだったので、普段の私たちの活動と同じように、彼らを助けることにしました。サロネン氏は、RK側の極端な反応について警告を受けます。【訳註:R.K.やRKはコーフ祭司(Rabbi Korff)の略称。以下同様】

 フォールズチャーチのホテルの宿泊施設 ー ロレンツォがWDCで見つけたものよりかなり安価(1人1泊3~4ドル)。 RKチームの何名かはそこに留まっています。【訳註:ヴァージニア州フォールズチャーチはワシントンD.C.近郊の都市】

 行動 ー ……RK は、夕食、祈りの朝食、断食明けの費用を負担します。

 プロジェクト・コーディネータ ー …RKの交通手段は彼のオフィスで処理する必要がありますが、バスの手配は可能です。……RKに交通手段を提供してもらうのは1つだけです。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 次に、1974年8月6日、

8. 7月のFLF資金調達 ーー FLFは7月に資金調達をおこなわなかった。コーフ祭司のサポート担当者は7月9日頃に到着した。前の週は [ライジング・]タイドを出すのに費やされ、日々の基礎の最後の週と同じように、何もないように見えた。

11.コーフ祭司 ーー ダンと私は、RK と一緒に物事をスムーズに進めようとするのが最善であることに同意。チェスで彼に勝たせることができるかもしれない、とダンは提案。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年8月3日)

 ここで言及されているコーフ祭司とは何者か?
 彼の名はバルーチ・コーフ、ユダヤ教の祭司(ラビ)である。日本では殆ど知られていないが、ニクソン大統領が反ユダヤ主義者であるにもかかわらずニクソンを支持し、「ニクソンのラビ」という異名をもつ(ただし公式の政府関係者ではない)。当然、ウォーターゲート事件に際してもニクソンを擁護し、「大統領に対する公平性のための全国市民委員会」を設立する。同委員会は寄付を募って、ニクソン擁護の新聞広告を打ったり、ニクソンの訴訟費用にあてた。そして先のメモ書きのように、7月22日から25日まで連邦議事堂前での3日間断食デモを実行する。
 ここで気づくのは、統一教会が作った「全国祈りと断食委員会」との名称の相似性である。 「大統領に対する公平性のための全国市民委員会」の設立は少なくとも1973年8月末には存在したらしい。一方、「全国祈りと断食委員会」は、文鮮明訪韓後の1978年11月以降であるのは間違いない。前週の聴聞会からフェファーマンの証言を引いてみよう。

 フレイザー:1973年の夏、[ニクソン大統領]弾劾の議論が下院で始まりました。[大統領を]積極的に支持しだすのを、文師が1973年の11月まで待つことにした理由を知っていますか?
 フェファーマン:文師はニクソン大統領の弾劾に関して立場を表明していませんでしたが、彼の発言は当時のアメリカ国民の精神に関するより一般的なものであり、弾劾の議論が始まってから2か月も待たれた理由はわかりません。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年7月28日)

 なぜ文鮮明はニクソン擁護を打ち出したのか?
 ここからは与太話である。前編で書いた通り、文鮮明は「希望の日」ツアーを1973年10月から全米で展開していたが、大赤字を出していた。さらにこの年、文鮮明は前年のベルヴェデーレ邸に加え、近くにあるイースト・ガーデン邸をも購入していた。つまり、統一教会は11月時点で借金を抱えていたのだ。
 そこでぶち上げたのが、コーフ祭司の作ったのと似た名前の団体によるウォータゲート・プロジェクトーーすなわち、ニクソン擁護は借金返済のため信者へさらに鞭打ち献金させるためだったのではないだろうか。無論、アメリカ政府や連邦議会に食い込むことも副次的にあったろう。
 文鮮明も逆張りでニクソンを擁護したわけではなかった。ウォータゲート声明を出した11月時点で、ニクソン政権に関する世論調査では、支持率こそ岩盤支持層のみの30%弱だった(辞任時までこのまま)が、弾劾に対しては反対が賛成を上回っていたからだ。
 しかし、そこから展開が大きく変わる。ニクソンが事件を隠蔽しようと画策していたことがホワイトハウスの記録テープから発覚し、捜査妨害の疑いが新たに付け加わり、74年7月時点で弾劾への賛否が逆転していた状態だった。つまり、コーフ祭司が3日間断食デモをやろうとしていたのは、弾劾が不可避になって進退窮まった頃の起死回生的イベントだった可能性が高い。もっとも、断食デモさなかの7月24日、最高裁はニクソンに対し記録テープの提出を命じる判決を満場一致で下し、情勢はますます不利になるのであるが……。

 さて、統一教会側は3日断食デモをどう考えていたのだろう?
 前回の年表をご覧いただければわかるように、73年の年末から始まった40日断食デモ、そして74年2月のホワイトハウスでの会談以降、ニクソン絡みの動きが見られない。ということは、文鮮明にとってニクソン政権は最早どうでもよく、連邦議会議員へのアプローチ、そして借金の返済(信者からの献金吸い上げ)が出来れば良かった、と考えていたかも知れない。
 あるいは、ニクソンの側近によって遠ざけられていた可能性もある。ジョン・ニデッカーの証言によれば、

 フレイザー:ホワイトハウスと宗教団体の連絡役として、あなたは文鮮明師が1974年の全国祈りの朝食会に出席し、その後ニクソン大統領と会うよう手配しましたか?
 ニデッカー:いいえ、委員長。私はその会談を阻止するために、そして彼の出席を阻止するためにできる限りのことをしました。
 フレイザー:誰がこうした手配をしたのか、あるいは文師が大統領と会うための集会に出席した経緯を教えていただけますか?
 ニデッカー:その全国祈りの朝食会の前日まで、私は彼が出席することを許されないだろうと思っていました。なぜなら、彼にはそこに入れたい取り巻きを引き連れていたからです。その日の午後、誰かが手配したのでしょう。 彼が出席できるよう手配したのはブルース・ハーシェンソーンだったと思います。
 その夜、彼らがこの件について私に電話してきたとき、私は彼が他の人々が座る席や大統領が座るであろう席から遠く離れていることを確認しました。その全国祈りの朝食で彼の側からいかなる類のデモも行われないようにするためです。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前公聴会(1978年6月1日)

 ブルース・ハーシェンソーンはホワイトハウスのスタッフであり、FLF会長ニール・サロネンと接触があったことがサロネンのメモからも判っている。
 このように、政権から警戒されたのか、7月まで動きがあったようには見られない。しかし、今回は(非公認だが)政権に近い側からの働きかけ、しかも資金は向こう持ちなので、文鮮明は腰を上げたのだろう。時期はこちらが先だが、あの反日デモとそっくりな経緯である。

 この3日間断食デモについて、フェファーマンは一切の証言を拒否した。

 フレイザー:コーフ祭司およびホワイトハウスと共同でプロジェクトを実施しましたか?
 フェファーマン:その質問には答えません。
 フレイザー:あなたはそれに答えるよう指示されています。
 フェファーマン:私は、そのような質問が合衆国憲法修正第1条に基づく宗教と結社の自由の権利を侵害するという理由で、その質問に答えることを拒否します。
 フレイザー:あなたの拒否は議会侮辱に当たる可能性があることを理解していますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:これらのプロジェクトは何でしたか?
 フェファーマン:その質問にも答えることを拒否します。
 フレイザー:同様に、あなたは答弁するよう指示され、答弁を拒否すると議会軽視に当たる可能性があると警告されます。 まだ答えようとしないのですか? 
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:3日間の断食というアイデアを発案したのは誰ですか?
 フェファーマン:わからない。
 フレイザー:3日間の断食はありましたか?
 フェファーマン:この小委員会の使命との関連性が理解できないという理由で、私はその質問に答えることを拒否します。
 フレイザー:答弁するよう指示されており、拒否すると議会侮辱に当たる可能性があることを理解していますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:まだ拒否しますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:その目的は何でしたか?
 フェファーマン:私はすでに先週の証言で、全国祈りと断食委員会とそのデモの目的について説明しました。
 フレイザー:私はいま、コーフ祭司とホワイトハウスと共同で実施されたと解しているプロジェクトの目的について尋ねています。
 フェファーマン:私は、宗教と結社の自由に対する私の権利を侵害するという理由で、その質問に答えることを拒否します。
 フレイザー:質問に答えるよう指示されており、拒否すると議会軽視となる可能性があることを理解していますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:まだ拒否しますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:次の2問。何名の人が参加し、断食の日程はいつでしたか?
 フェファーマン: 私は、その質問が私の信教および結社の自由の権利を侵害するという理由で、その質問に答えることを拒否します。
 フレイザー:答弁するよう指示されており、拒否すると議会軽視に当たる可能性があることを理解していますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:集会での人々の使用に関するすべての決定は文師によって決定されたのでしょうか?
 フェファーマン:同じ理由で、私はこの質問に答えることを拒否します。
 フレイザー:あなたは公式に答弁するよう指示されており、答弁を拒否すると議会軽視に当たる可能性があることを理解していますか?
 フェファーマン:はい、委員長。
 フレイザー:他にもたくさんの質問がありますが、あなたの置かれている立場を考慮すると、それを追求するのは無駄だと思われます。 それでは、これで聴聞会を打ち切りとさせていただきます。

『韓米関係調査』下院・国際関係委員会ー国際機関小委員会事前聴聞会(1977年7月28日)

 連邦議会はフェファーマンを議会侮辱罪で告発するよう勧告したものの、結局は何もなされかったようだ。

 このように、フレイザー小委員会はフェファーマンに対する聴聞会を打ち切らざるをえなくなり、その後再開されることもなかった。では、フレイザー小委員会はどうすべきだったのか? 述べるまでもない。韓国政府と切り離し、統一教会を反政府カルトとして単独で捜査すべきだったのだ。だが、そうは至らなかった。その点については別の機会に述べたい。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?