精読「ジェンダー・トラブル」#024 第1章-4 p43-44
※ #020 から読むことをおすすめします。途中から読んでもたぶんわけが分かりません。
※ 全体の目次はこちらです。
たとえば「女」という「統一」の旗印のもと「団結」をするとき、そこからは多くのリアルな〈女たち〉が排除されます(#006 参照)。
そのような排他的な「女」をアイデンティティとしてしまうと、排他条件という境界そのものが「女」のアイデンティティとなってしまいます。よって、境界そのものが「アイデンティティの概念の境界を攪乱」したりはできないので、「女」から排除されてきた〈女たち〉を境界の内側に取り戻すことはできません。境界の「攪乱をはっきりとした政治目標とする一連の行動」も、境界がアイデンティティである以上、原理的に不可能です。
統一化されたアイデンティティはすなわち境界であり、必ず排除を伴っているので、そのような境界は撹乱されるべきなのです。
「女」というアイデンティティはかなりの部分、法構造に由来していると考えられます。この法構造は「現在使用可能な文化条件」の土台でもあります。
ですので、法構造およびその派生物である文化条件(≒既存の言説)で「女」を説明してしまうと、それもまた既存の法構造の派生物のひとつとなり、法構造にない「新しいアイデンティティの概念が出現する可能性を、まえもって締め出す」ことになってしまいます。
そのような「基板主義的な戦法」つまり、既存の法構造なり言説が生成するような「女」を無批判に前提とするやり方では、どうやっても既存の法構造なり言説が温存されてしまうので、「現在のアイデンティティ概念の変容や拡大を、その基準目標とすることはできない」のです。
「合意済みのアイデンティティとか、すでに確立されたアイデンティティ」とは、〈通俗的なインターセクショナリティ〉のことを指しているのではないかと思います。〈通俗的なインターセクショナリティ〉とは、人種、性別、階級、性的指向、性自認など複数の個人のアイデンティティを Excel 集計表のようにまとめる考えです。
このような考え方を根本に据えることをバトラーは否定します(#023 参照)が、それが「政治テーマや政治課題」となっている間は、ゆるやかな連帯の旗印とするのはアリだと考えています。
ですがそれはしょせん、かりそめのアイデンティティに過ぎないので、必要なときに「生まれ」、いらなくなったら「消滅」したりします。
アイデンティティがかりそめだというのは一見すると妙な感じを受けます。が、自分のことを考えてみると、自分には一貫不変の強固なアイデンティティなどこれっぽっちもありません。ほとんどの人にとって〈自分〉というものは揺れ動き続けるのが普通でしょう。だから絶対不変の〈ガチガチのアイデンティティ〉なんてものは方便にすぎないのです。
「女」のカテゴリーを拡げると、誰をも表象しなくなります(#006 参照)。
「内的多様性を秘めた自己」とは人種、性別、階級、性的指向、性自認など複数の個人のアイデンティティのことです。それらは絡み合っているので、この場合はこう、と図式的に表すことはできません。
いずれにしても、「女」というアイデンティティの守備範囲が狭いからといって、それを無理に拡げなくても、ゆるやかに連帯すればいいのです。
ジェンダーはほどくことのできない絡まり合った糸の一本なので、ジェンダー単独を抜き出すことはできません(#004 参照)。ただ「政治テーマや政治課題」が生じる度に、その側面から見たジェンダーがどんなものか分かるようになるだけで、全体像は「永久に遅延され」見知ることができません。
「テロス」はアリストテレスの考える〈事物の目的〉で、事物はテロスの実現のために存在します。
家父長制の打破がフェミニズムの最終目標だ、と考えてしまうと、「女」から〈女たち〉が排除され、「女」というアイデンティティに撹乱は生じ得ず、したがって統一された「女」にこだわるならば、フェミニズムは現状の法構造を維持する方向に作用します。
それに対して「開かれた連帯」には、排除はなく、法構造の撹乱が生じ得ます。それは、アドホックな「目のまえの目標」に応じたかりそめのアイデンティティによってゆるやかに連帯し、目標が達成できたら解散するという「多様な収束や分散を容認する開かれた集合」です。
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これで第1章「〈セックス/ジェンダー/欲望〉の主体」の「四 二元体、一元体、そのかなたの理論化」は終わりです。
バトラーの理想論が最後に語られました。が、確かに理屈では分かるのですが、これが可能となるには、成員全員にバトラーの理屈が理解できるだけの高い教養があり、そしてなによりも精神的余裕があることが必要条件となるでしょう。
それでも1990年には一定のリアリティがあったのかもしれません。いっぽうネット社会である現代は、1990年に比べすべてが短絡的、直情的になっており、連帯に伴う〈苦さ〉を受け入れるタフネスを欠いています。そんなヤワな人ばかりではないと願いたいところではありますが、もっともヤワな人の意見がもっとも通るのが現代のネット社会です。わずかな異論(あるいは短慮から生じる被害妄想的な誤解)にも過剰反応してしまう人たちの手によるヤワな言説があふれかえる中、1990年的タフネスが生き伸びる可能性は果たしてあるのでしょうか。
(#025「五 アイデンティティ、セックス、実体の形而上学」に続きます)
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