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上篠翔『エモーショナルきりん大全』感想

 今はなくなってしまった、ゆるふわで濃かった文芸同好会の先輩である上篠翔(かみしの かける)先輩の第一歌集『エモーショナルきりん大全』(新鋭短歌、書肆侃侃房)が発売された。ピアスやインナーカラー、ネイルで飾ったバチバチな女の子の表紙が素晴らしく、かなり目立つ本なので探しやすいと思う。

 先輩との思い出はたくさんあって、それについて書きたい気もするのだけど、歌集の感想とは関係ないから今回はあまり書かないで、歌集のことだけ書こうと思う。できるだけ。

 まず、藤原龍一郎先生による帯の言葉がとてもいい。

「上篠翔の短歌の特徴はスピードである。そして、スピード感とスピードはちがう。スピード感はスタイルであり、スピードは本質だ。口語のスピードの快感を存分に味わってほしい。」

 この歌集を読む(歌集は読むというより、味わうとか、感じるとか、そっちの動詞が似合う気もする)と、ここで言われている「スピード」という本質を誰でも感じるに違いない。僕の場合、先輩の短歌にあるスピードという本質は、情景と結びついて理解された。どの詩も、読んだ瞬間にスッと情景が脳裏に浮かんでくるのである。書かれた文字を読むことと、その内容を想像することのタイムラグがほとんどない。文字がそのまま景色であり、感情として白紙の上に記されているのだ。これは口語の効果による部分も大きいのだろうけれど、それ以上に先輩の言葉選びの妙がなしていると感じる。例えばこの詩。

校庭が光庭だったらよかったなぼくらひかりのなかをかけっこ

 校庭という言葉から光庭を連想する言葉遊びでグッと掴み、「よかったな」とひとり言のようにしみじみと漏らす。僕だったらここでスペースを開けてしまうのだけれど、先輩は「よかったなぼくらひかりのなかをかけっこ」と繋げてしまう。おかげで「よかったなぼくら」とも読めて、詩の外側にいる僕に投げかけている言葉のようにも感じてられるようになる。そして、「ひかりのなかをかけっこ」と美しい光景を丸いひらがなで描写する。校庭でかけっこをする年齢はおそらく小学生くらいなので、「ぼくら」という言葉がとたんにノスタルジーを帯びてくる。さらに、「かけっこ」という幼くて可愛い言葉がそれを強化し、存在したような、しなかったような、光る校庭でかけっこする光景が脳裏にしっかり刻まれてしまう。

 音や意味だけでなく、スペースやひらがなという視覚も用いて表現される先輩独特の世界。それはかなり我々が住んでいる現実と近いところに在るのだが、まったく重なるわけでもない。当然のことだけれど、その差異は先輩というフィルターを通しているから生まれるものであり、オリジナリティと言い換えることができる"違い"だ。創作において、このオリジナリティというものをはっきりと打ち出すことは、意外と難しいものである。それがこの歌集ではいたるところで明確に現れているのだから、やっぱり上篠先輩はすごいなぁと感心してしまう。

 さて、ここからはとりわけ好きだった詩を紹介したいと思うのだけれど、その数があまりにも多すぎて困ってしまう。とりあえず一読しながら好きだと思った歌があるページに付箋を貼ってみたのだが、写真のように本自体が分厚さを増すほど付箋だらけになってしまった。

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 こうなると、まるで受験生の参考書のように見えてくる。ただ、参考書と決定的に異なっているのは、歌集を開くたびに付箋の位置が変わるに違いないということだ。なぜなら、ある短歌を読んで感じる良さというのは、その時の自分の感性でかなり変化するからだ。

 受験において重要な事項というのはほとんど変わらないし、変わったとしても年単位で時間がかかる。しかし、人の心は常に変化しており、今日感じる美しさが明日には醜さに変わっていることだってあり得る。この変化の速さは映画や小説といった他の芸術作品においてもいえることではあるが、短歌はとりわけそのスピードが速いジャンルであるように思う。少なくとも、僕はそうだ。好きな傾向はあるけれど、細かいところで刺さり方が変わっていく。

 どうして短歌を見て感じる良さは、他の芸術に比べてその場での感性に左右されやすいのだろう。

 あり得そうな理由はいくつかあるけれど、まず第一に短歌は57577でできているということが挙げられるんじゃないだろうか。つまり、形式上の束縛として、単純に一つの詩を鑑賞する時間が短くて済むということだ。故に、その場その場での刹那的な感性が詩の印象を大きく左右する。これが小説となるとそうもいかない。一文単位ではともかく、読むのに二時間も三時間もかかるし、疲れて合間にスマホを見たり、途中でしおりを挟んで翌日に回すことだって頻繁にある。対して短歌は、一目で57577が読めてしまう。一瞬で一つの作品が鑑賞できてしまう。

 また、こういう形式的なこと以外に、短歌を構成する要素にも理由がありそうだ。小説も元々は詩だったわけだし、今でも詩のように書いている人もいるが、あくまで現代の小説というのは「文」の連なりが生む全体のことを指す。対して、短歌は「言葉」の連なりでできており、一つ一つの歌の中ですでに世界が完成している。それは15秒以下の短い映像や写真に似ており、映画に似る小説とは「スピード」がまったく異なる。つまり短歌は、「ある感情」や「ある世界」を切り取った一瞬の芸術であるように、僕には思えるのだ。

 極論を言えば、だから歌集はその歌人が撮ったいくつもの写真が収められたアルバムに似ている。写真同士の繋がりよりも、写真個別の印象の方が先に来る。また、映画が世界を創造する行為であるのに対し、写真は世界を切り取る行為だ。小説と短歌にも似たような方向性の異なりがある(もちろん、例外もあるのだけれど)。切り取るということは、世界を閉じ込めるということでもあり、その一瞬がそこには永遠に保存されている。それ故、シンプルかつスピーディーに、短歌は鑑賞時の感性を揺さぶってくる。

 上篠先輩は短歌のこうした特徴を、口語的な表現やひらがなが多めのふんわりとした言葉遣いによって上手く利用していると思う。また、光や水、風などといった、刹那的かつ抽象的なくせにしっかりとそこに存在している透明な表象を巧みに利用しているのも、先輩の短歌の良さであると僕は勝手に思っている。今回は、僕が付箋の山の中からさらに厳選した10首を記したいと思う。別に100首挙げてもいいのだけれど、それはさすがにまずいだろうし、2首だけとか言われるとさすがに少なすぎて迷ってしまう。だから今回はキリよく10首、挙げさせていただきたいと思う。


能あるきりんは首を隠す んなわけねーだろ剥きだして生きていくんだ光の荒野

 この歌集全体を代表するというか、象徴する詩だと思う。能ある鷹ではなくきりん。ひらがなの「きりん」は可愛らしく、先輩の言葉選びの特徴がいきなり発揮されている。そこから「んなわけねーだろ」と強い言葉が現れ、きりんという可愛さからの落差でガツンと殴られる。そして、結論は「剥きだして生きていくんだ」と力強い。「剥きだしで」ではなく「剥きだして」なのも、能動的でいい。ありのままという印象のある前者に対し、後者は自らさらけ出していく勢いがある。この「きりん」にとって長い首はもしかしたらコンプレックスなのかもしれない。それでも、剥きだして生きていくんだ。

 また、全体的に「光」や「水」の描写が多い歌集だけれど、この詩でも「光」が使われている。光や水は特定の形を持たない不定形の存在であり、また一般的に透明なものとして理解されている。そして、それらと同じ特徴を持っているのが実は「感情」だ。悲しみも、喜びも、色や形を持たない不定形で透明な存在としてそこに在る。それを踏まえた上で「光の荒野」とは何かを考えると、明らかにそれは人生のことだろうと思える。様々な感情の入り乱れる荒々しい大地を、首を剥きだしてきりんが駆けていく。そんな情景が僕の脳裏に思い浮かんだ。生きることとは、駆けること。先輩の短歌の本質はスピードである、ということが、この情景からも確認できた。


花曜日 全国民はいっせいに花を抱いて午睡をすごす

 この詩は「花曜日」という部分にすべての良さが詰まっている。国は花曜日を設けるべきだと真面目に思う。インターネットに限らないけれど、世界のスピードは加速するばかり。花と共に四季を重ねていくという行為を、いつの間にか失っていそうで怖い。花曜日ができたら、みんなで午睡をするわけだ。花、あるいは花のような人を抱き、誰もが夢の世界へと行く。無人の街には花びらが舞い、生き物たちが楽しそうに歌って踊る。そんな理想の光景を想像しながらも、現実の僕たちは今日も七曜を巡るわけで。せめて気が付いたら花を買って、玄関にでも飾ろうと思う。


横顔が好きだと言ってくれたのですべての面が横顔になる

 一見分かりやすい恋愛の詩だ。しかし、先輩らしさは「すべての面が横顔になる」という後半に詰まっている。この「面」は顔のことだと理解しがちだが、シンプルに平面の「面」と捉えてみよう。すると途端に全身が横顔の気持ち悪い存在が現れてくる。また、相手から見て横顔ということは、「横顔が好き」と言ってもらったその瞬間には(少なくとも相手が横顔を見て好きだと思っていた瞬間には)、二人は目を合わせていないということだ。相手はあなたをまなざしているが、あなたは相手を見ていない。そのくせ、相手が好きだと言ってくれた横顔になるということは、相手にもっと見られたいわけだ。この時、あなたは(すべての面が横顔になった人は)、自分自身を見ることができていない。相手を通してでしか自分を評価できていないのだ。まなざし、まなざされるという一方通行的な関係が見て取れるこの詩は、不気味であると同時に、どこか依存的で主体性に欠ける人物の存在を浮かび上がらせる。そして、「〇〇なあなたが好き」と言われた過去を思い出し、僕はその時どうしていたっけと、すべての面を〇〇にしてはいなかったかと疑いを抱くのだ。


やまいだれに木 それでギター死んだ木はたくさん生かしたたくさん殺した

 音楽にも造詣が深い先輩らしい詩だと思う。ギターの音色は伝染病となって人類に広がる。人生を救われもすれば、自殺に導かれもする。こういう話題はとりわけカート・コバーンのことを意識してしまう。あるいは、アイドルやロックバンドに救われてきた夜のことを思い出す。ギターを死んだ木とする感性もいい。先輩が引っ越してしまう時、僕は先輩からベースを買った。ベースが弾けないのに買ってしまった。今もそいつはベッドの足下に突っ立っていて、僕のことを見下ろしている。


風祭 降りることない駅にある撮られない映画のワンシーン

 しょっぱなから「風祭」という語彙の爽やかさが尋常ではない。それが吹くのはおそらく電車から見える「降りることない駅」であり、「撮られない映画のワンシーン」がそこにはある。根拠のない想像だけれど、そよ風の吹くホームでセーラー服が揺れているような光景が浮かぶ。そんな青春を通過した記憶はないのだが。そうだ、これが「撮られない映画」なのだ。あるかもしれないけれど、ある証拠はない物語のことを「撮られない映画」と言っているのだ。すると「降りることない駅」というのが、他人の(あるいは自分のあり得たかもしれない)人生のことであるというのも分かってくる。あなたは電車に乗っていて、ふと降りることのない駅を通過する。この時ホームに立っている、知らない誰かにも人生がある。その誰かから見たら、電車は風を運ぶ装置に見えなくもない。その誰かは人生のワンシーンをそこで過ごしている。そういう風な詩に思える。


青色のすべての蝶がとまるから今日よりきみのあだ名は霊園

 これはとにかく情景が美しい短歌だ。音の区切れもすっきりしている。青い蝶といえばモルフォチョウが思い浮かぶが、あれは腐った果実や死骸を好む。さらには毒も蓄えているという。そんな蝶たちがとまる「きみ」は不気味な存在だ。「霊園」というから死者、あるいはそれに連なる不吉な存在が「きみ」なのだろう。普通は近づきたくない死神みたいな「きみ」なのに、妙に惹かれてしまうところがある。それはおそらく「霊園」という言葉が持つ、どこか静謐な光のイメージのせいなのかもしれない。都会の中にひっそりと広がる「霊園」の中に、青い蝶を肩に止めた「きみ」が立っている。街のそこここから青い蝶がやって来ては、「きみ」の身体に止まっていく。僕もまた青い蝶に導かれ、「きみ」のところへやってくる。こちらを向く「きみ」の表情は蝶に隠されて見えないけれど、それが笑顔だと僕には分かる。次の瞬間、「きみ」も僕も姿を消して、青い蝶さえもいなくなる。昼下がりの「霊園」は相変わらず静かで、僕の名が刻まれた墓石が、他の墓石と同じようにひっそりとたたずんでいる。そういう情景が浮かぶ美しい短歌だ。


みんなぼくに死ねっていうよ とびきりのファッションセンスで屋上へ立つ

 これは反骨精神に溢れた短歌だ。前半は暗く、言葉は軽めだがその分等身大で救いがなさそうに思える。だが、後半になると印象は一気に変わる。「屋上へ立つ」という行為は飛び降りを連想させるわけだけど、「とびきりのファッションセンス」で立つとなると、自殺と安易に結びつく自己否定的な感情がとたんに裏返るのだ。むしろ自分を肯定して、自分をアピールして、自分を保ったままで「屋上へ立つ」姿が思い浮かぶ。仮にそのまま飛び降りるのだとしても、きっと中指は立てたままだろう。この「ぼく」は「きりん」と同種の精神を抱いていると、僕は思う。

 また、「ファッションセンス」という言葉選びもいい。これが「ファッション」だと固定的で印象が弱いが、「ファッションセンス」となると途端に解釈は広がり、具体的な姿ではなく抽象的な意思が強く現れてくる。言葉選びの妙が素晴らしい短歌だ。


花みたい、それはやさしい揶揄でしたいいよ花ならお墓に似合う

 誰かを花にたとえるのは、人類がよくやっている行為だと思う。しかし、ここではそれは比喩ではなく揶揄となる。「やさしい揶揄」というのはだから、例えば恋人同士なんかがお互いに使う種類の言葉だ。恋人でなくても、気の置けない間柄、あるいはまったく親しくないにも関わらずどこかで相手のことを自分と同種だと理解している人々の間で交わされるに違いない。その揶揄を、「いいよ」と肯定する人物は、相手の死を予感している。「花みたい」な人が「お墓に似合う」わけだから、「花みたい」と揶揄した人は、近い将来やがてお墓になるのだろう。「私のお墓にお参りに来てね」なんて言うよりも随分美しい表現ではないか。

 しかし、こうした解釈とは別に、もっと残酷な見方もできる。ただ単に、「花みたい」は同情や憐れみ、あるいは優しくないつもりの揶揄だったのかもしれない。言われた人物はどうしようもない状況にあり、死を意識しているのだとしたら。「いいよ花ならお墓に似合う」というのは自分自身を指すことになる。お墓の花はいつか枯れるので、それも含めて諦観のこもった返しに聞こえる。

 それにしても、「花みたい」と揶揄されるのは一体どういう人物なのだろう。また、「花みたい」と他人を揶揄する感性を持つ人物のことも気になる。この詩は双方向で美しい。


今日きみの出会うすべての看板にこわい目の人のいませんように

 個人的に、これは東京の街中や本屋、とりわけ映画館を詠んだ短歌なのではないかと思った。「こわい目の人」という部分が最も秀逸で、様々な想像を巡らすことができる。ホラー映画やアクション映画のポスターの目はこわいけれど、広告に慣れ切った俳優やアイドルの死んだ光る目も別のベクトルでこわい。また、客引きや店員だってある意味看板なのだから、「こわい目」の人がいるかもしれない。拡大解釈すれば、人は誰しも外見という看板で自身を表現しているわけなので、「きみ」が今日出会うすべての人は看板と言うこともできるかもしれない。いずれにせよ、そういうものと「きみ」が出会わないようにと祈るのは、一つの愛の形ではなかろうか。


アニソンの知ってる曲がかぶるたび夜がやたらに長かったんだ

 これはすごく個人的な思い出なのだけれど、この短歌を見つけた瞬間に僕の脳裏を駆け巡ったのは、上篠先輩がまだこちらにいる時期の夜のことだった。文芸同好会で出会ってから、こういう夜を幾度も超えてきたように思う。河原や酒屋、カラオケや誰かの家で飲み明かしている夜、そこには必ず音楽があった。文学があり、映画があり、その他無数の芸術があった。みんなで集まり、巷に溢れる作品たちを勝手に評し、今自分が作っている、あるいは構想している作品を打ち明け、インターネットで見つけたとっておきの音楽を流し合っては乾杯をした。床で眠って、翌朝二日酔いの頭痛を抱えながら自宅へ帰っている時の、あの何とも言えない清々しさ。朝の世界の爽やかな白さと、祭りの後の少しの寂しさ。そういうものがブワッと溢れて来てすごく懐かしい気持ちにさせられた。

 あの頃、僕たちはいつか自分の作品がパッと世に出ることを夢想していた。それが今や、現実となったわけである。創作という長い道のりはまだ始まったばかりだけれど、それでもこの作品が先輩の目指していた一つの峠の頂きであることは間違いないだろう。そこに立ってみて、先輩はどんな思いを抱いたのだろうか。こんな世界も落ち着いて、いつか先輩と顔を合わせたら、まず「おめでとうございます」と伝えたい。それから、峠に立った心境を尋ねてみたいと思っている。これまでの景色を振り返りつつ、次の峠に向いた何かしらの言葉が聞けるかもしれない。

 ああでも、きっと話題はもっと自由に流れるのだろうという予感もある。自分たちの作品の話はそこそこに、ハマっている映画や小説、音楽の話に広がっていくような気がする。そうしてまた、やたらに長い夜がやって来る。


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