見出し画像

さようなら、オリーブの首飾り。

  八月も下旬にさしかかったところ、松旭斎すみえ先生の訃報を耳にする。

  ほとんどの思い出が、鈴本演芸場の5月の大型連休か、お盆の特別興行だった。要は顔見世には欠かせない藝人。前座から見ても、華やかで可愛らしい奇術の先生だった。なによりも、あの「オリーブの首飾り」奇術に用いたのがすみえ先生で、それはわたしにとって生きる演芸史。そう、あの頃の楽屋は全てが生きる演芸史だった。

  「演芸」のはなしをすると、それは必然的にむかしのはなしをするようになるのは、仕方がないことだ。なるべくなら、むかし話などしたくはないのだけれど、そろそろ未来よりも過去の方が長くなりつつある年齢なので、年相応ということになる。

  落語という芸種は不思議な立ち位置にある芸能で、大衆芸能の顔と、古典芸能の顔を行き来する。が、いま大衆の真ん中に落語があるかというと、ある。と言い切る自信はない。古典芸能の顔をしているほうが生きやすくもありそうではあるが、大衆芸能でありたいという想いも、強くある。

  えぇ、三遊亭 司と申しまして、師匠が歌司、そのまた師匠、大師匠が三遊亭圓歌。圓歌でおわかりない方は、「山のアナアナ」の歌奴…

  ここである一定の年齢から上のお客さんは共感の声をあげ、そのフレーズだけで笑いが起きる。と、いうことは、たしかに落語が大衆芸能であった証しだ。

  昭和のテレビには「演芸」があった。そのテレビとて家庭の真ん中、社会の真ん中になくなりつつあるということは、テレビも大衆的ではなく、よって演芸も大衆的ではない。と、いうのも不思議な言い方で、大衆に向けられた芸が、これ、すなわち、演芸だ。と、いうことは、演芸というもの自体がなくなりつつあり、大衆という観念する、もはやないのだろうか。

  「お茶の間」があり、真ん中にテレビがあり、藝人が「お笑い」と呼ばれるようになる、前夜。テレビの演芸番組には三遊亭圓歌がいて、春風亭柳昇が、桂米丸が、橘家圓蔵がいた。千代若千代菊がいて、玉川カルテットが、牧伸二が、ケーシー高峰が、東京コミックショーがいた。それは、なんとも言葉にし難い、甘く楽しい思い出である反面、藝というものはなんとも儚い。

  そして、その中にポール・モーリアのオリーブの首飾りにのった、松旭斎すみえがいた。

   さようなら、すみえ先生。

書くことは、落語を演るのと同じように好きです。 高座ではおなししないようなおはなしを、したいとおもいます。もし、よろしければ、よろしくお願いします。 2000円以上サポートいただいた方には、ささやかながら、手ぬぐいをお礼にお送りいたします。ご住所を教えていただければと思います。