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からっぽだった幸せ

去年のいまごろ
重度のうつ病だった私は生きていることが苦しかった

"苦しい"という表現以外でどう表したらいいのか分からないけれど
ある日から、一日のはじまりが、そして終わりが
私にとっては無意味で希望のない日々の連続になった

自殺に追い込まれ
意識が無くなった病院で目を覚ました時には、生きている事に泣いた


母や当時交際していた彼とその両親、ドクター、看護師さんがいて
「生きててよかった」「もうこんなことしちゃダメだよ」「本当によかった」何度もいわれた


親たちの涙を見ても罪悪感は湧かなかった

それよりも死ねなかったことのほうが
また生きていかなきゃいけないことのほうが苦しく
声を殺して泣いた

あのころの私は何を見ても何をしていても全てが悲しく映り、

綺麗な景色を見ても、近所に住みついていた野良猫が擦り寄ってきた時も、八百屋のおばあちゃんに親切にされた時も
涙がでた

心が空っぽの私には小さな幸せが
ただただ切なくてなぜかさみしく、悲しくさせた


あれから一年が経ち、私の心は安定した

笑うことがまったく出来なくなっていた私が
こんな風にまた普通の生活を送れる日がくることは
当時には想像もつかなかった


今は、綺麗な景色、ありきたりな日常の小さな幸せを

それを『幸せ』だとしっかり健康なこころで感じることが出来る

その度に、現実を『悲しい』ではなく
『幸せ』だと感じられるようになれた自分に感心する

どん底からここまで戻れた自分に、よかったなと心から思う

心身ともに健康である事の大切さが身に染みた

命を経とうとした2020年の10月16日

言葉はなかったものの
強く私を抱きしめてくれた母のために

あの時の私は一生懸命、前を向こうとした


眠れるようになった
食事がとれるようになった
外に出られるようになった
人と会えるようになった

当たり前のことが出来なくなっていたから
こんなことでも自分を褒めた


母は1ヶ月仕事を休み
そばにいてくれた


いっしょにごはんをたべた
布団を並べて寝た
海を見に行った
砂浜で夕暮れを眺めた
体調がよくない日には料理を作ったり
掃除をしたりする母の姿をベットから眺めていた

少しずつ私は回復に向かった

あの日、全てを終わらせるつもりだった私にとって

綺麗なものを見た時に、“綺麗”と思えているは、
去年と変われた実感が湧く瞬間である

時々、いま起きていることは
すべて"奇跡"なのだと目頭が熱くなる時がある


私にとっての“”は

あのときに生きていた命でみれている景色なんだなって感じている

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