結局のところわたしはわたし
小さいころから「しにたい」と思ってしまうことが何度もあって。
将来への不安であったり、できない自分に対しての嫌悪感だったり、なにが原因かわからない罪悪感だったりからその思いはむくむくと表れてきて。
こどものころはそれを「希死念慮」と呼ぶことなんて知らなかった。
残念ながらいい歳になった今でもそれは時折襲ってくるけれど、とりあえず踏みとどまっている。
大切なひとに話したら残念ながらその感覚はわかってもらえず、むしろなかなかの批判をされてその時は悲しかったけれど、しにたいと思わずに生きているひともいるんだと思ったら目から鱗の気分でもあった。
ちょうど芸能人の自死の話題に注目も集まっていた時期だったので、悲しかったけれどわたしはつらい世界からあのひとたちは解放されたのかな、と思ってしまったけど、そう受け取らないひとも多くいるんだろうかと思った。
どの考え方がいいのかなんて私にはわからないけれど。
過去のしにたいと思ったわたしに伝えたいことは、しにたいと思っていても生きているということ。
そしていまもしにたいと思う日はあること。
よろこびもかなしみも日々のなかに変わらずあるということ。
いくつになってもわたしはわたし。少しだけ強くなった部分もあるけれど過去の私もマトリョーシカのように私の中にいるから。
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