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真面目な人、程よい人。

僕は、真面目な人間だ。

小、中、高と、ずっと真面目な人生を送ってきたと思う。

先生の手伝いも積極的にやっていたし、

体育や部活、行事において誰よりも声を出していた。

雑用だって誰よりも進んでやったし、

遅刻なんてしたことがなかった。

別に真面目自慢がしたいわけではない。実際そうだったのだ。

でも、思い返せば泣き虫だった。悩みも多かった。

部活の練習着にお茶をこぼし、体操着もなく、練習にでれないと泣いた。体調がいいのに部活に出ないことが罪だと思っていた。

自分が雑用を頑張っていて、他の人がサボっているという状況が苦しくて泣いた。しかもサボっているやつが自分より上手いのが悔しかった。

体育委員として、行事のために声掛けをしたが、しつこすぎてうざがられてヘコんだ。


真面目な人は、勝手に自分を責める。

勝手に自分にハードルを設ける。

勝手にこれをしたらだめだと思い込む。


僕は、進んで手伝ったり雑用をするのが普通だと思っていたし、それをしないのが悪いことだという感覚だった。

だから何も手伝わない人に勝手に腹が立っていて、自分と同じ熱量で物事に取り組まない人をだらしがないと内心見下していた。


でも、社会に出て、強く生きていく人間は、そんなに真面目じゃない、程よい人間だと思う。

程よく反省し、自分にできることをわきまえ、自分を追い込みすぎない、そんな人間。


きっとイメージとしてあるだろう。

子どもの頃からずっと真面目で生きたきた人は社会に出た時、真面目過ぎてストレスをため込み、やがて耐え切れなくなって、リタイヤしそうだと。

子どもの頃からヤンチャしてた人ほど、社会に出た時、たくましく生きていけそうだと。



子どもの頃は、真面目な人ほど褒められる。先生に従順な人ほど褒められる。真面目な人は「優等」生だと言われる。

子どもの頃からそんな扱いをされ続けると、このままの自分でいいんだと思ってしまうだろう。自分のこの姿勢、この性格が正しいと思ってしまうだろう。


将来が危ない。

ずっとそうやって生きてきた真面目過ぎる人間は、いつか「真面目な人」という肩書を脱ぎ捨てなければならない。

何重にも重ね着しているそれを一枚ずつちゃんと脱がなければ。


適当でもいいんだと、全てに全力を注がなくてもいいんだという感覚を、身につけなければならない。

できない自分を否定したらだめだ。

失敗を気にしすぎたらだめだ。

自分だけがだめだと思っちゃだめだ。

いつか自分が潰れてしまう前に。






社会に出て「強い人」は、「真面目な人」ではない。

真面目も適当も兼ね備えた「程よい人」だと思う。


社会に出てないからわからんけど、きっとそうなんだ。

                       #10




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