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父の幕引き ② 告知

2020年5月21日

父はとにかく病院の食事が食べられない人だった
20年前に入院した時を思い出した

その時は痩せほそる父を見た医者が 
なんでもいいから食べさせてください
と言った
慌てて父の好物を沢山持って行った(母が)

今回も同じくらい食べられない(母はもういない)

病気より
餓死するのが早いかも
そんな冗談を言っていた頃はよかった

手術の日からちょうど一週間目の朝
起きると

知らない電話番号からの着信
その後に父からの着信2件

イヤな予感

父にかけ直すと

お医者さんが話があると言っている
もう鎌倉か?
まだ大阪か?
今日の16時来れるか?

知らない番号は 
父の入院している病院からだった
緊急時の連絡先が私になっていた

ますますイヤな予感
良い話のはずがない

でも行くしかない
いつでもいくよ!

まだ大阪にいてよかった
13時に行くことになった

涙が溢れた
キッチンに座り込んだ
頭までもたれる壁に
なんとか支えられた

自分で驚いた

父のことは
私の生命を生み出してくれて感謝してるけど
好きではない

私たち自由な3兄弟を育て上げたこと
尊敬してるけど
好きではない

正直
いつ逝ってもいいと思ってた

ひどい娘
だけど、正直な娘

それでも
泣くんだ、私

自分に驚いた


ひと通り泣いてから
病院へ行った

看護師さんがたくさんいる部屋の横にある
医者のお話を聞く部屋

昔と違い、
家族が呼ばれ
本人に告知しますか?などはなく

父と私と夫と3人でスルッと入って
一緒に話を聞いた

父の方が
俺もいいの?って聞いていた

手術で取った膀胱の細胞の検査の結果、

普通は肺に見つかることの多い
小細胞がんがみつかった
さらに骨盤のあたりが怪しい らしい

進行の早いがんなので
担当医から抗がん剤治療と
放射線治療を勧められた
勧められた、というより、

これから、
あれして、(一度退院して)
これして、(別の病院で骨を調べるRI検査をして)
こうします(再入院して抗がん剤治療)
以上

選択の余地無し
という感じだった

、、、やっぱり、、か

父を見ると床を見つめていた

抗がん剤治療を
断固拒否した母が亡くなって
もうすぐ10年

床を見つめる父は

大きな溜息をついた

過去に
母と姉は抗がん剤治療を断った経緯がある

抗がん剤治療はしたくない

父もそう言っていた

わかりました!
と言えないない私たちに

医者は
少し考えていいですよ
返事は今すぐではなくていいですよ

と言っていた

けれど

膀胱の管も普通より長く付けたままだし、
(3日で取れるといってたのが1週間)
退院したら
再入院は少しゆっくりしてから、、
というようなことを父が口すると

そんなゆっくりはできません
進行が早いものです

するなら早く始めた方がいいです

すぐに検査予約を取ります
と急かされた

それは

だいぶやばいんだな とわかるに充分だった

別の病院でRI検査するときに
家族の方に手伝ってほしい 
と医者に言われた

ついていけということだな

ハイ、
私が付き添うことにした

すぐじゃなくていいから
とにかく考えてみてください

と話は終わった

考えよう、考えよう
そう言わないと終われなかった

(その後、医者や看護師から、どうですか?考えましたか?などと聞いてくることはなかった)

父と私が部屋を出ると
夫は医者の元へ戻って
しばらく話していた

何を話しているんだろう

気になったけれど
父の気をそらすのに緊張した

抗がん剤治療をして
しんどい思いをして少し長く生きるのか

抗がん剤治療を断り
好きなものを飲み食いして
短いかもしれないけれど
落ち着く自分の家で
今まで通りの暮らすのか

しんどさも長さも確率も
やってみないとわからないことばかり

素人目にみても
痩せ細った父に
抗がん剤治療ができる体力があるとは
思えない

もういいでしょ?と思ってしまう娘

早くお母ちゃんお迎え来ないかなーって
いつも笑いながら言ってた父だけど
いざとなると揺れている

延命治療は断ると
前からずっといっていたのに

この歳(79歳)になって抗がん剤治療をするのは
延命治療には当たらないのだろうか?

それは誰が決めるのだろう

誰も決めてくれない

誰も聞いてくれない

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