介護保険物語・外伝 第3回 ~高齢者介護こそが最高の生産的活動~
どうも!社会福祉法人サンシャイン企画室の藤田です。
連載第2回にあたる前回をアップしたのが2022年12月1日とありますので、なんと今回第3回は以来ほぼ9ヶ月ぶりという、ご無沙汰新記録をマークしたようです。う~ん。
今回はわが森藤部長、前回のテーマ~生産性~を引きずりつつも、まったく新しい観点からまったく新しい主張をしておられます。
御用とお急ぎでない方はぜひひとつお立ち寄りください!
お久しぶりね
なんでも聞くところによると、このところアラタは新たに腰を痛めて臥せっていたらしい。
しかし久しぶりに顔を見せたアラタはそんなことを微塵も感じさせず、いかにもなんでもない風な表情をしてわたしをじっと見つめながら、日焼けによると思われる浅黒さを、似合いもしないのにニヤけることで隠そうとしているかのようだった。
再び『生産性』
「今日は前回に続いて、介護業界における『生産性』をまったく新しい観点から見つめ直してみたい」
右手の人差し指だけを立ててユラユラと左右に揺らせながらアラタはそう言った。
「ネットを見ていると『高齢者は集団自決すべき』などという、これだけ取り出して見たらわたしにはとても残念でならないことばが、案の定あちらこちらで火種になっているようだ。でもその大元をよく読んでみると『次の世代に活躍の場所をちゃんと譲っていく仕組みを作るべきだ』というのがその発言の真意らしい」
アラタは口を左右に伸ばすことで、言葉の一部が切り取られてそこだけが話題になるのも困ったもんだという合図を送ってきた。
「でもこうした発言が捉えられてまことしやかに批判され、なおかつそうした批判がある程度の賛意をもって燃え広がる様を目にするにつけわたしが思うのは、『高齢者の尊厳』というものについてみんなきちんと考えたことがあるのだろうか?という疑問なんだ」
高齢者の尊厳
アラタはどこか遠い目をしてみせる。
「そのことは特に介護士について言えるのじゃないか。この『高齢者の尊厳』についてその真意を奥深く考えたことのない介護士は、利用者・入居者に対して表向きは丁寧語・尊敬語で対応をしていても、なぜそういう対応が必要なのかということを真に理解していないだろうし、そういう対応をしつつも実は心の中のどこかに高齢者介護を仕事にしている自分に対して卑下したきもちをもっていたりするならば、高齢者介護に誇りをもって携わっていると言うことはできないだろう」
アラタは更に遠くを見るために目を凝らしているような顔をした。
「サンシャインでは「理念」として、次のことを謳っている。
2と3は今はまあ触れないけど、最初に『高齢者の尊厳』が出てきているところに注目してほしい。このことはつまり、これを理念として掲げて、介護士がそれを遵守する努力をしないと『高齢者の尊厳』というものはそう簡単に確保できない、ということなんだろうと思う」
アラタはもう一度歯を食いしばるような表情をして見せ、すぐに眉毛の中央を上げた。
「もっと言うなら、実は『高齢者の』のところはその本質ではない。ここがたまたま高齢者施設だから『高齢者の』と言っているだけで、これが障碍者施設ならば『障碍者の』となるべきだろう。つまりそもそもが『人間の尊厳』の問題なのさ」
さらに『人間の尊厳』へ
そこまで言うと、アラタは「どうだい?面白くなってきただろう?」と言いたげに、わたしに向かってニンマリとした笑顔をしばらくキープした。しかしいくら待ってもわたしからなんの反応も得られないと悟るとすぐに無表情に戻った。
「今では誰でも知っているように、人間はサルから進化した、と考えられている。でも人間はサルをはじめ他のいろんな動物とは大きな違いがあることも常識として認識されているよね?その違いの最たるものは『動物は本能にしたがって生きているけど、人間はそうじゃない』ってことだね」
人には誰だって若い頃があって、若い頃にはこれ一発決めとけ、っていうような常套的通過儀式みたいなものがあると思うけど、わたしが若い頃に決めた思想に関する一発は、ちょうど今アラタが言う「動物は本能にしたがって生きているけど、人間はそうじゃない」の部分に関する情報取得がそうだった。なのでここに至って一言物申さないわけにはいかなくなった。
「そう言えば岸田秀が『唯幻論』で同じことを言ってますね。『人間の本能は壊れているので、生きていくために幻想をつくらざるを得なかった』っていうやつですが」
それにこういう言説もある。
しかしアラタはそういうわたしの発言をほぼ無視して続けた。
「じゃあ人間は何にしたがって生きているのか?それが「知・情・意」なのだよ。つまり動物の行動パターンはだいたいが種の保存という本能に基づいて決められているんだけど、人間の行動パターンはその人の知情意に基づいた状況判断によって本人が決めている、と。そこが人間が動物とは異なる、人間の人間たるゆえんだよね」
だから人間の行動は多種多様であり、これは良くてこれは悪いと一律で決められないから、さしあたってのルールとして道徳とか法律とかが必要なんだ、くらいのことがさあーっと脳内を走ったけど、まあいいとしよう。
『人間の尊厳』は守られねばならない
「そこんところをしっかり抑えてもらって、ここでもう一回「人間の尊厳」について考えてみるよ。2023年の今では、この「人間の尊厳」って、人類全体というと嘘っぽいけど、ともかくある程度の世界の共通認識として、それは大事なことなので守っていかなきゃいけない、ぐらいのことは共有されていると思う。ただそれが本当に実践されているかどうかは別の話だけど、こうした共通認識って、大昔からそうだったかっていうと決してそんなことはないと思う。1948年に国際連合が「世界人権宣言」っていうものを発表したけど、ここで言う「人権」の根本はこの「人間の尊厳」が支えているよ。つまり「人間の尊厳」なんてものは何もしなくても自然に守られるようなものではなくて、宣言したりして声高に訴えることでようやく守られている、とても危うい存在だってことだよ」
話がちょっと劇的になってきて恥ずかしそうなアラタ。少し助け舟を出すことにした。
「『世界平和』なんかもその手の概念ですよね。ただこっちは言っても言っても守られたためしがないですけど」
『人間の尊厳』が守られているかどうか、一番よくわかる状況
「元に戻ると、だから「高齢者の尊厳」も一緒で、理念を掲げて介護士が絶えず努力してないと簡単には守れないものだっていうこと。そして一般に言って、「人間の尊厳」が守られているかどうかということが一番よくわかる状況というのは、目の前に「弱者」がいるという状況のときだと思う」
アラタは両方の眉毛だけをぐっと上げて目をできるだけ大きくしてみせた。
「それって昔炭鉱夫が炭鉱に降りていくとき鳥かごの鳥を一緒に連れていったって言いますけど、それと同じで「弱者」が「人間の尊厳」が守られているかどうかのプローブになるっていうことですね?」
「有り体に言えばそうかな。まあ「弱者」って言っても色々あるけど、要介護者は「弱者」と言ってもいいと思う。だとすれば特養のような高齢者施設こそが、あるいはそれを含めた福祉事業こそが、その国というシステム、文化の中で「人間の尊厳」が守られているかどうかを知るための社会的バロメータのひとつとなりうるのじゃないか?と思うわけだ。そしてその中核にいるのが介護士であり、この介護士こそがマザーテレサやナイチンゲールのような、「愛の実践者」の現代における継承者となりうる有資格者なんじゃないか?そう考えている」
そこまで一気に言うと、アラタはうつむいてしばらくの間、肩で息をしていた。
次世代に活躍の場を譲るシステムのつくりかた
「最初の方で言ったけど「高齢者は集団自決すべき」発言の主旨は「次世代に活躍の場を譲るシステムをつくるべき」ということだと述べたけど、ではそうしたシステムはどうやってつくるのか?といことに、この発言者は特に意見を持っていないみたいだね。その方法が「高齢者の集団自決」じゃ誰も救われないわけで。でも想像してみてほしい。我が国が「人間の尊厳」を、したがって「高齢者の尊厳」を本当に守る国になっている姿を。「高齢者の尊厳」がしっかり守られ、QOLの維持向上が本当に実現されている介護施設を」
アラタはあの有名な曲の一節を真似るかのようにつぶやいている。
「もし日本がそんな国で、日本にある介護施設はみんなそんな介護施設だったとしたら?だとするとそんな日本で年老いていくことは誰も不安にならないのじゃないか?もしそんな姿が本当にみんなのものとなったなら、一体誰が自分の今現在の地位を財産を必死に守ろうとするだろうか?多くの人は、早めにリタイアして、若い者たちにそうしたポジションを自然に譲っていくようになるのじゃないだろうか?」
アラタはまだうつむいている。うつむいたままで、まるでうわ言のようにつぶやき続ける。
「介護士たちが努力して努力して「高齢者の尊厳」を守り続け、日本という国が「高齢者の尊厳」がしっかり守られる国となり、そしてそのことがすべての高齢者にとってのコモンセンスとなる。もしそんなことが起きたなら、多くの高齢者はタンス預金などパーっと吐き出して、さっさと楽隠居する。そうすることで社会の循環がよくなり、そのことが国にとってどんな施策より遥かに生産的であることが判明する。そんな風になるのじゃないか?」
そこまで言うとアラタは口を閉ざした。少しずつ顔を上げていった。
「まあそういうことで。介護士の高い志がわが国の命運を握っていることがわかったね」
貨幣はその国の信用という共通認識がその価値を裏打ちする。同じように「高齢者の尊厳」が確実に守られるという共通認識はその国の発展を担保する、のかもしれない。
わたしがそんなことを心の内で思ったことを確認したのか、アラタはなぜか「アディオス・アミーゴ」と囁くように口を動かし、左手を腰に当て、肩をすぼめるようにして帰って行った。
なんでスペイン語なん?
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