見出し画像

今夜の映画

昔々、アナトリアで〜この映画は今のアナトリアそのものだ〜


昔々、アナトリアで(2011)
原題: Bir Zamanlar Anadolu'da
トルコは東に位置するアナトリア。夜の高原を、三台の車のヘッドライトが照らす。降りてきたのは複数の捜査関係者たち。彼らは街で起こった殺人事件を調査するため、容疑者ケナンに死体の場所を案内させるのだが・・・

監督:  ヌリ・ビルゲ・ジェイラン(トルコ)
時間: 157分
ジャンル: クライム / ドラマ

とても秀麗で象徴主義的な映画です。特にその計算された構成と演出から成る映像美は見事であり、約2時間半の長丁場を飽くことなく見続けることができます。

ジャンルとしてはクライムに入ると思いますが、ただの事件ものではありません。エンタテイメントの部類の映画ではないため、好き嫌いがはっきり分かれる作品だと思います。というわけで、今回は長文です。なお、本作品はカンヌ国際映画祭でグランプリを受賞したもので、監督のヌリ・ビルゲさんは、この後「雪の轍」という映画でパルム・ドールを受賞しました。

特にオススメする人
トルコに行こうと思っている人。トルコ情勢について知りたい人。

解釈(ネタバレ含む)

本作品は、トルコ、アナトリア地方のとある街で起こった殺人事件の捜査関係者一行が、被害者の死体を一夜かけて見つけ出し、検死までを行うというストーリーです。あらすじは単純ですが、本作を単なるクライムとして捉えると、どうにも拍子抜けするようなストーリーになっており、この映画の主題が表面的な殺人事件にないことが推察されます。暗に示される主題を捉えるには、映画を何度も見返す必要がありました。(わたしは4回くらいw)

結論から述べますと、本作品は、「トルコ国内における形式的な西欧の社会制度の取り入れと、イスラム文化に根ざす国民生活の実態との乖離から生じる現代トルコ社会の本質的問題」を暗に提起した非常に重いテーマの作品だと思います。

ご存知の通り、トルコは歴史的にイスラーム圏にありながら、西欧的な共和制国家として成立した特殊な国です。トルコ国内では西欧的な社会制度が整備されつつありますが、民族問題や人権問題など、さまざまな理由からEUへの加盟も実現されていません。

作中にはこうしたトルコの社会的実情を背景にした様々な象徴的シーンが散りばめられており、視聴者は、映画全体を通じて、現代トルコが抱える問題を垣間見ることができます。今回はそれらの中でも、特に象徴的だったシーンについてそれぞれ個人的な解釈を記載させていただきます。

1. 林檎のシーン

ドライバーのアラブが林檎を取ろうとするが、林檎は近くの水路に落ち、流れていく。その間、死体が見つからないことに苛立った地元警察官のナージを検察官のヌスレットが諌めながら、刑事訴訟法の改正とEU加盟についての会話がなされる。

意味深なシーンです。林檎はおそらく、理想的なトルコ社会のメタファーでしょう。林檎を取れないアラブは、無垢な庶民の象徴でしょうか。シーンと共にEU加盟が滞っていることや刑事訴訟法の改正などについて僅かに語られますが、こうした国としての情勢と、捜査中にも関わらず、食べ物に夢中な一般市民の実態との対比から、トルコ社会の名目と実情の深刻な縺れが表現されていると解釈できます。

2. 村長の娘がそれぞれの男に飲み物を与えるシーン

捜査を一旦中断し、食事を取るために近くの村に来た一行は、村長の家で停電にみまわれる。暗闇の中、ランプを持った村長の娘が現れ、疲れ切った男たちに飲み物を与えていく。

おそらくこの映画の中で最もシンボリックな場面でしょう。村長の娘ジェミレは聖母マリアの表象でしょうか。飲み物を与えられるのは、解剖医ジャマル、検察官ヌスレット、容疑者ケナンとその弟、そして、殺されたはずのヤシャルです。わたしはこの飲み物を与えられた男たちにある種の対比を感じました。それは、前述した「イスラムの教えに根ざす者たち」と「西欧化に舵を切った者たち」の対比です。前者はもちろん、ケナンとその弟、そしてヤシャルです。後者は解剖医ジャマルと検察官ヌスレットとなります。ケナンは飲み物を与えられたのち、涙します。死んだはずのヤシャルが現れたのは、神聖なものを強調するためでしょうか。おそらくケナンは聖母マリアによって救済されたのでしょう。

ケナンはこの後、自分がヤシャルを殺したと供述します。それでは他の男たちはどうでしょうか。多分に踏み込んだ解釈ですが、この後、解剖医は庭での検察官との会話の後、彼女を再び目に入れます。が、この時ランプの火はその灯が消えるかのように揺らめくのです。単なる神聖な場面の終了を表現しただけなのかもしれませんが、こうしてこの象徴的なシーンは幕を閉じます。

3. 死体が発見されるシーン

翌朝、捜査団一行はケナンの供述から、被害者ヤシャルの死体を発見する。ヤシャルは縄で縛られた状態であった。

死体はホッグタイの状態で見つかります。ケナンは縄で縛った理由を「車に入らなかったから」と言いますが、後続の場面で死体は縄で縛らずとも、車のトランクに入ることがわかります。こうした事実から、縄で縛られた死体はやはりメタファーとして捉えることが可能です。トルコでは、昔から刑事犯に対する刑務所での扱いが問題となっているらしく、それを理由に、EUに加盟できないという報告もあるようです。おそらくこの死体もまた、そうしたトルコの実情を暗に示していると思われます。

4. ヤシャルを見たという店の人の供述

死体発見後、検死のため街に戻った解剖医ジャマル(Cemal)は、カフェで店の二人から妙な話を聞く。そのうちの一人と、彼らの知人は、殺されたヤシャルの推定死亡時刻より後に、街にいる彼の姿を目撃しているというのだ。

真実は全くわかりません。死体発見のシーンとも繋がる内容ですが、ヤシャルは本当にケナンが殺したのか?それとも弟が殺したのかは不明です。あるいはどちらも殺していないのかもしれません。それに加えて、街の人たちの奇妙な供述は、この事件の真相が不明であることを示しています。本質的な捜査は行われず、事件の真実は置き去りにされ、形式的な刑事処理が淡々となされていくということの強調だと解釈できます。

5. 解剖医の顔に死体の血が飛び跳ねるシーン

死体の解剖を進めると、助手が死体の肺に土が入り込んでいることを発見する。死体は生き埋めにされた可能性があるが、解剖医のジャマルはこの事実を記録に残さない判断をする。卑下するような目つきでケナンを見つめる助手。解剖を続けようと腹を切開すると、死体の一抹の血がケナンの顔に飛び散るのだった。

クライマックスです。ジャマルは死体の肺から土が出てきた事実を記録に残しません。この事実を残せば一連の捜査がやり直しになり、さらなる時間と労力を要することも考えられます。また、生き埋めとなれば容疑者ケナンの刑も重くなるかもしれません。しかし、この判断をより一層強固にしたのは、「この事実を記録に残して公表したところで、おそらく結果は何も変わらない」という彼の一種の虚無感でしょう。誠実に見えたドクターですら、この現状を変えることはしない(できない)のです。一種の批判を浴びせるように、死体の血が彼の顔に振りかけられます。

補足1. ジャマル写真の回想シーン

トルコでは、世俗主義といって、宗教と政治とを分けて考える立場の勢力があるようです。その支持層の多くは社会的エリート層で、医者や検察官も大別すればこの層に分類されるのではないでしょうか。ここからは更に私的な解釈になりますが、どこの国でも同じように、エリート層は、大学などのアカデミアを卒業後、国の重要な職務に就いていくという一連のステップが存在すると思います。そこには国や社会をより良くするという正義感や情熱がきっと存在するでしょう。幼い頃の夢や無垢な感情も同じです。ジャマルの写真の回想シーンは、これを投影しているのではないでしょうか。理想と使命感を胸に国の要職に就いたものの、社会の実態は何も変えられない。気づけば定められた職務を、形式的に淡々とこなすだけの自身の姿を見い出したようにジャマルは鏡の中の自分を見つめますが、その視線は、おそらく視聴者に向けられているのです。そうした気概を再起しながら向かった解剖ですが、現実は何も変わりません。解剖医への血しぶきは、こうした人たちへの批判と遺憾の意が込められているのかもしれません。

補足2. 検死室における検察官と解剖医の会話

解剖を始める前、検察官もケナンに似た結論を見出していたのかもしれません。作中、検察官は解剖医に自身の妻と思しき女性が、彼女の予言通りの日時に死亡したことを話すと、それは自殺ではないか?と諭されます。検死を開始する前に、執行ルールに従って検察官は以下のように述べます。

「確かな死因は外見からは特定できない。法医解剖が必要である」

おそらく検察官の妻であろう女性は自殺だったのでしょう。重要なのは、こうした事件が自殺なのか、他殺なのか、それとも事故なのか、それすらも調査されないという刑事制度の実態が存在するという事実です。この女性もまた、形式ばかりの制度と検証により、心臓発作とだけ書かれ、真実は明らかにされぬまま処理されてしまったのではないでしょうか。検察官はこの事件における解剖医との一連の話を通じて、それに気付かされたのではないでしょうか。自身もまた、本当の意味で事件には関わっていない。本当の意味で検死などは行なっていないということを。そしていま、目の前にいるヤシャルの妻であったこの女性も、自分の妻と同じように不幸へと向かっていく。

「この問題を一緒に考えて欲しかったのに」

検死助手はそう呟きます。

残されたヤシャルの妻子は報われないでしょう。現在のトルコの制度では、不幸に見舞われた人々を救済することはできないのです。この作品は、形式的にしか機能していない国の刑事制度と、実態としては何も改善されない一般の人々の生活を引き合いにして、現在のトルコという国のいびつな現状を強烈に映し出した映画なのです。

いかがでしたでしょうか。今回は敢えて自分の意見を長文で記載させて頂きました。また、ここまでの長文にお付き合い頂いた方に感謝いたします。この他にも象徴的なシーンの見所はたくさんありますが、解釈は人によって千差万別ですので、参考程度に捉えていただければ幸いです。個人的には、是枝監督の「三度目の殺人」やミヒャエル・ハネケ監督の「隠された真実」にテーマや演出方法は類似しているのかなと感じました。とてもオススメできる作品です。是非ご覧になってみてください。

今回の考察に際し、参考になった情報を以下に掲載させていただきます。

[1]トルコ
[2] 外務省
[3] アムネスティ・インターナショナル
[4] 世俗主義
[5] 名誉殺人

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?