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アイアン家具屋の自己紹介3〜「普通」に馴染めなかった僕が自分らしい仕事を見つけるまでの話〜

高校入学から就職まで

子供の頃から工作は好きでしたが、それが自分の仕事に結びつくとは全く考えず、普通に受験勉強をして公立高校の普通科に入学しました。

高校へまともに行ったのは初めの半年くらいで、後は行ったり行かなかったり。借りてきたノートを写して、自分で教科書を読んで勉強していました。そうしているうちに出席日数が足りなくなった事もあり、3年生に上がる年に通信制の高校へ転入する事になりました。
高校に行かなくなったのは学校という限られた空間が窮屈だったという事と、単純に高校生活に興味を持てなかったからです。

自分のペースで勉強もしていたし、ノートも提出していたし、赤点を取ったわけでもない。ただその場に居なかったからというだけで進級を認めてくれませんでした。じゃあ毎日教室に行かなくてもよい通信制なら自分に合っていると思い、あまり迷わず転入する事にしました。

通信制といっても月に数回学校へ登校します。
学内には妊娠中の20代の女性もいたし、80歳のお婆ちゃんもいました。病気やいじめなどで高校を中退した子も多く、皆さまざまな事情を抱えています。

そのせいか皆、必要以上にベタベタせず、自分の授業が終わればさっさと帰ったり、授業開始のチャイムが鳴ってもやる気が出ないといって外でタバコを吸っている子もいました。
単位が取れなければただ留年するだけなので、すべて自己責任。
なので教師もあまり口出しをしてきません。
そのため大人びた子が多かった(実際大人も多い)です。おかげで良い距離感とペースで1年間通う事が出来ました。


高校卒業後は美術系の専門学校で金属工芸を学びました。
そこそこ楽しく、初めて「仲間」を感じる集団に身を置く事ができた2年間でした。

しかし専門学校では技術は教えるのですが、生き方、稼ぎ方は教えてはくれません。
就職をしようにも金属工芸の技術を評価して雇ってくれるところはありませんでした。
それで卒業後はその他大多数の卒業生のようにフリーターになりました。

目的も理由もなくアルバイトをしていたので、やはり続かないし、虚しさばかりが募っていきました。


溶接と出会う

そんなある日、家でケーブルテレビを見ていたら、アメリカの番組で車やバイクのカスタムをする工房の様子が流れていました。

作っている車やバイクはどれも派手で、登場人物もとても個性的。
日本のドキュメンタリーのようにひたすら技術の卓越さをクローズアップしたり、高尚な雰囲気なんて全くありません。
ただアメリカ人が楽しそうに、時に喧嘩をしながらモノづくりをしていました。
素人目にも作りも粗く、決して丁寧な仕事ではないのですが、その自由な雰囲気に魅了されてしまいました。
それまでモノづくりといえば工芸や美術品のような物を作る事だと考えていました。
僕自身派手なバイクが好きという訳では無いのですが、モノづくりの自由さや楽しさを思い出させてくれました。
自分はモノづくりを楽しみたいのだと。

次の日には溶接科のある職業訓練校の資料を取り寄せ、入学手続きをしていました。

職業訓練校は当時住んでいた場所から遠く、通学に往復4時間かかりとても大変でした。それでも様々な年代の人と一緒に技術を学ぶというのはとても楽しく、人生勉強にもなりました。


社会人になってから

卒業後は大手のガス管工事会社へ溶接士として入社し6年働きました。
技術職として日本各地の現場を転々としながら、地面に埋めるガス管の溶接をしていました。危険なガスを扱う為、溶接の技術は求められますが、1つのことに没頭できるこの仕事は天職だったと思います。


独立してから覚えた事もありますが、僕の溶接技術はこの時のものがベースになっています。

しかし数ヶ月毎に地方を転々とする働き方は結婚生活には向いておらず、結婚して1年後に転職することになります。
地方への長期出張中に東日本大震災が起こり、「家族と一緒に暮らしたい」と考えるようになった事も転職の理由の一つです。
その当時は仕事に没頭していて、そんな当たり前の事も考えずにいました。

地方から大阪に戻ってから暫くの間、趣味で続けていた革細工で財布や小物を作ってイベントで販売をしていました。
そんな時、知り合った革屋さんに声をかけて頂きアルバイトから正社員へ登用してもらえることになります。

その革屋さんでは革で物を作る人に革を販売していました。この時鞄屋や靴屋、デザイナーなど沢山のモノづくりをしている人達に出会う事が出来ました。

このときにお世話になった方々とは今でも交流がありますし、サニーサイドスタジオの事業はこの時の経験や教えが元になっています。

その後、機械メーカーの資材調達部へ転職します。
ここではモノづくりをしていた経験と、前職での営業職の経験を買ってもらい、雇って頂けました。
しかし良くも悪くも日本の典型的な中小企業の縮図のような社会で、パワハラがあったり、面倒身の良い上司が居たり、社員旅行でハワイへ行ってしまうような会社でした。

高校の時と同じように集団の中での仕事は自分にとってはとても窮屈で、毎日苦々しい物を感じながら2年で退職しました。

この時、企業の中で集団の一員として働く。という事に限界を感じるようになります。


サニーサイドスタジオの立ち上げ

「人間は35歳までに身につけた事で一生食べていく」という話を聞いた事があります。根拠は無いと感じますが実際、歳を重ねれば重ねるほど、全く新しいことを始めるのが大変になってきます。

だったら今まで身につけてきた事を棚卸してみようと思い、自分に何が出来、何が出来ないか自問したところ、今の事業に行き着くことになりました。
その時33歳になっていました。

自分の自己紹介を書きながら人生を振り返ってみると、「オール・オア・ナッシング」だなと感じます。
僕は、はじめた事には一生懸命取り組んで、違うと思えばスパッと辞めてしまいます。全て無かったことにしてしまう。

機関車のように窯の中でごうごうと火が燃えているうちは、どんな事があっても止まらないし、勢い良く取り組めるのですが、火が消えた瞬間どうやっても動けなくなります。
そしてまた少しづつ火がついて、のそのそと動き出す。

そうする事が遠回りな人生だなと思っていましたが、今では全てが奥底で繋がっていて自分を形作っているのだと感じます。
人生において無駄なモノは何も無い。経験というものは自分次第で血肉にもなればただの贅肉にもなります。


人生は結局自分次第。
今はそう実感しています。


気がつけば結婚して子供もいます。もうすぐ35歳になりますが立派なマイホームはありませんし、ピカピカな新車もありません。もちろんお金もありません。僕らの親世代の描く幸せ像とは大きくかけ離れていますが、自分のやりたい事もできていますし、家族で過ごす時間はとても幸せです。何より未来に希望を感じる。

人生の大半の時間を過ごす「仕事」が自分にとって満足いくものか、そうで無いのか。単純な事ですが5年、10年先に見える景色は全く違うモノになると思います。

僕にとって今の仕事は得意な事で人の役に立て、全て自分で決める事ができます。それが自分らしい仕事だと思っています。


自分の船を漕ぐ

色々な経験を経て誕生したサニーサイドスタジオですが、屋号は自分でつけた訳では無く、ある人に命名して頂きました。

人から頂いた名前は決して事業が自分だけのものでは無いと思い出させてくれます。
サニーサイドスタジオは僕が操縦する船のようなものだと思います。
荒波に流されたり、無風状態で停まってしまったり、浸水して沈没しかけたり。

船を投げ出して自分だけ逃げ出すのは簡単ですが、この船には家族や応援してくれる人達も乗っていて、沢山の人が灯台となって行く先を照らしてくれています。だから僕にはこの船を必要としてくれる人の所へ無事に航行させる責任がありますし、それが自分の仕事だと思っています。
それに、上手くはありませんがこの小さな船の操縦がとても気に入っています。


長ったらしい自己紹介を書いたのは、僕は人と繋がる際に、その人の経験や辿ってきた道を知る事でより相手を深く理解できると思っているからです。
人のことを知る為にはまず自分の事を知って頂く。
そこから生まれる関係作りのキッカケになればと思い書きました。

このノートで僕の「今まで」の「経験」を書きました。

今後は「今考えている事」を書いて行きたいと思います。

長文にお付き合い頂きありがとうございました。


タイトルは昔の僕のように周りに馴染めないとか、人生に迷っている学生の子達にも読んで欲しくて分かりやすくつけました。人生を語るほど偉くはありませんし、人の背中を押してあげられるだけの力や実績はありません。それでも何か読んだ人の心に残ればと思い、啓発チックなタイトルにしました。(noteの読者って若年層はどのくらいいるんだろう?)

いつもお読み頂きありがとうございます!