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[エッセイ]どうせ彼女いる〜女性らしく滑稽に生きよう〜

こんにちは!藤沢真弓です。

こちらの記事で彼氏ができない、と嘆いてから早9か月。

相変わらず彼氏はできず、1人酒に溺れ腹の肉を増やすばかりです。
というか恋愛どうこうより血圧下げるために本気で減量をしなければ死にます。35過ぎるまでに痩せないと一生そのままらしい…まだ死にたくない。(っていうか、病院行って治療費払うってシンプルにめんどくさいよね、ミジンコぐらいしか体力がない勢としては)

街ゆけばカップルカップルカップル。
人は自分の鏡といわれますが、目を配ると似た服装、似た外見のカップルばかりです。美女と野獣なんて滅多に見ません。現実は甘くないということですね。
最近の人気俳優の結婚報道などの記事の写真を見ると、その顔面のパーツの類似さに毎回この通説に納得せざるを得ません。

なぜ私に彼氏ができないか。1人の時間が多すぎて、現実逃避をしたくとも脳内旅行をする他にやることがありません。(最近考えついたのは「人生はゲームなんではないか?」→「人生はプログラミングされているのではないか」→「そんなことはない。人間は脳の指令によってやはり動かされ、川や木々などの自然によって生かされている」→「だとしたら、誰かから頭上に見られているという感覚はどこからくるのだろうか?」と、アインシュタインに想いを馳せています。誰か知見のある人、ご教授ください)

それは、一重に高望みの相手を望んでおり、かつ積極性がないことに他なりません。

もう1つは、祖母との同居に長年悩まされた母親(といっても彼女の深層はそれだけによるものではないというのはけして否定できないが)よりも幸せになってはいけない、という健気な思いからくる、という一面があることも言及したくないがせざるは得ません。(といっても彼女は彼女なりに私の性質に悩まされたのだろうなとも思う、知らんけど)

そんな葛藤がありつつ、愛を求めているのは長年の事実であり。パトラッシュだけでは生きていけないのが人間である。パトラッシュと共に死ねるわけでもないですしね、現代社会は。

人間と近しくなるのが恐怖すぎてサークルも続かず、少女漫画ばかり読んでいた華のキャンパスライフ。というかmy life is made of 少女漫画 and Uber Eats。

そんな夢見る子ども婚活女は例に漏れずジャニーズに夢中でした。俳優よりジャニーズ。合コンでいうとモテないタイプです。無難に阿部寛とか言っとけ。

さすがに成人以降は、黒の頭髪を引っつめて黒のノースフェイスを着てる人が好みが変移し、そういった人は私が好きな街の居酒屋周辺にも出没します。

そうでなくとも、最寄りの駅などでももちろん見かけます。この前はいきつけのドラッグストアで見かけました。その前はラーメン屋さん。なんだかイケメンとドラッグストア、ラーメン屋さんが不似合いで、あれ、もしかして、知り合えたらなんとかなるんじゃないか…なんて淡い期待を持って数メートルから意識してると、可愛いくて気立ても良さそうな彼女があとから合流します。

そう、私は気づいてしまったのです。

どうせ彼女いる。

そんなことばかりで、好みの男性をみかけても、どうせ彼女いるしな、と心を無にして一縷の望みに懸けることがなくなりました。

前述のようにぽっちゃりの範囲を超えてきたので、高望みがエベレスト級になったのも、悟りの境地に至った一因です。

最近はカップルを見つけると、鳩を遠ざけるように反対側を歩くようにまでなってしまいました。なんだか彼らに目に触れ何らかしらの感情を与えるのが嫌なのです。(さすがにやばすぎますね)

ああ、どうせ私なんて。そういった思いで挑戦もしなくなる。悲しすぎますね。悔しいです!(もちろんお笑いのネタを模しています)それでいいのか?

昔、DaiGoの月額の動画サービスに入っていたのですが(1000円以内の金額さえ払えず退会しました)そこで印象に残ったメンタル改善術が、「笑う」ということです。

辛いことがあったら、とにかくお笑いを見て笑う。こちらが鬱対策に非常に有効だとのこと。

昔はダウンタウンが好きで、フリートークのビデオをレンタルして夜な夜な見てたぐらいにはお笑い好きなのですが、最近はM-1と正月ぐらいしか見なくなってしまいました。

その代わり、Amazonプライムの『ミッドナイト寄席』というプログラムを電車の中で聞き流すようになりました。娯楽の1つといっても漫才と違って扱うテーマはもはや古典の1つともいえ、全て理解しようとはせず、その語りのリズムや雰囲気を味わうことを名目としようと心がけています。

…ってなもんで。

最近、執筆活動に精を出したくて、正社員より派遣社員の方が仕事への負担がなく仕事を引きずらずに専念できるかなと思い雇用形態を変えました。派遣先に決まったのは、なんと生涯縁がないと思っていた化粧品の大企業。新卒でアルバイト、8年で4回転職した社会不適合者が憧れていた社員証をタッチして出社、週に数日の在宅勤務、白を基調とした数十階のオフィス。

高学歴の人しかいないので、指示が的確で質問もあまり生まれない。派遣社員への接し方のマニュアルがありそうな、親切丁寧な指導。その実はベルサイユ宮殿のように高く平民に優しく接してあげているのよごとくの上流階級意識を感じざるを得ず、自由さを求めて選んだはずがいつのまにかその構造に同調してしまってました。圧力とは恐ろしいものです。

メンタルに不調をきたしてしまうようなダブルバインドに悩まされつつも、かといって所属したいか?というとしゃらくさいなあとも思ってしまいます。

てやんでえ、こちとらそんな人生送ってきてないわ。そんな人間になるならこのまま寄席にでも行って酒に溺れて競馬でもきめたいわ。

…というか、そういうふうに発想の転換をしていかなければとてもやっていけないのです。面白いことに、私は農家と商家の両親の間に生まれまして、若干商人の血は流れています。

閑話休題。どうにも話が逸れていけねえです。
そうやって「どうせ彼女いる」と吹っ切れてしまうと、楽になり自分のために今日は何かしよう、何ができるかな?と内的な世界に浸ることができるようになりました。

といっても外へ出ると春だし、桜は咲いているしいい気分になります。

そう、所詮夢見る齢アラウンドサーティーファイブ。空想乙女主義はそうそう変えられるものではありません。

はて、ラーメン屋はさすがに女が合流ことはなかなかありません。まさかのラーメン屋で出会うというXでバズりそうなことが訪れる!?

と夢想してみても、そうだ、ラーメン屋なんて恐ろしいダイエットの敵は誕生日にしか行かないと計画を立てたんでしたっけ。

じゃあ、やはり道はないではないか。

しかし川はどこまでも上流と下流に続きます。
海にもつながります。

漫画史に残るヒット作『BANANA FISH』の著者、吉田秋生の初期の傑作『河よりも長く緩やかに』という作品に、生涯の宝物となっている名言をここに引用します。

最初はきれいかもしれないけれど、流れも急だし、幅も狭い。でも、海に近くなると汚れはするけれど、深くて広くてゆったりと流れるじゃないか

『河よりも長くゆるやかに』
『河よりも長くゆるやかに』
まごうことなき名言!
『河よりも長くゆるやかに』
こちらもキーキー過去を気にしてしまう私にあらたな価値観を与えてくれました

似たタイトルの最近の作品に『水は海に向かって流れる』という漫画がありますね。こちらもなかなか文学的な側面を持った作品です。

余談ですが川にまつわる私の好きな吉本ばななの『大川端奇譚』という短編の忘れられない一説も紹介されてください。(もう脱線が止まらないのでこのエッセイを諦めました)

そして何かを隠すということと明るみに出るということの意味を考えた。 
そのなかで、川に呼ばれたのかな、という思いがふと訪れた。
私は川に入ったりはしないけれど、決して。
でも、川がここに私を呼んだのかもしれない。
目に見えないもの、悪意、優しさ、父と母がなくしたもの、得たもの、私があの頃求めてやまなかったもの。それと等しい引力で、この窓辺に、私を。
そういう運命の力、川が持ち、自然やビルや山々の連なりがこの世にあるだけで発散する力がもしかしたらあるのかもしれない。そういう何もかもが絡まりあってつながりあって、私がここにいて、ひとりではなくひとりで決められることでもなく、生きのびてきたし生き続けていく。そういうふうに思うと、心のなかで何かがちらちら光るのがわかった。
この窓から朝見る川面、まるで金のくしゃくしゃの紙が何万枚も流れていくみたいに光っている。
そういうのに似たゴージャスな光だった。
もしかして、昔の人はこれを希望と呼んだのかもしれない、とぼんやり思った。

『大川端奇譚』

吉本ばななといえば、ロングベストセラーの『キッチン』。生涯の宝物となった一節もこちらに記します。吉本ばななの主題はこれなんだな、と改めて気づかされます。

 人はみんな、道はたくさんあって、自分で選ぶことができると思っている。選ぶ瞬間を夢見ている、と言った方が近いのかもしれない。私も、そうだった。しかし今、知った。はっきりと言葉にして知ったのだ。決して運命論的な意味ではなくて、道はいつも決まっている。毎日の呼吸が、まなざしが、くり返す日々が自然と決めてしまうのだ。そして人によってはこうやって、気づくとまるで当然のことのように見知らぬ土地の屋根の水たまりの中で真冬に、カツ丼と共に夜空を見あげて寝ころがらざるを得なくなる。

『キッチン』

そういえば忘れてならないのは秋元康の不屈の名曲『川の流れのように』。「ああ 川の流れのように ゆるやかに」という歌詞の一節は誰もが知っている名フレーズ。

そんな秋元康はその20年後に『RIVER』という曲を作詞しています。『川の流れのように』とは真反対のスタンスの題材。つくづく秋元康氏の適応能力を感じざるを得ません。一番川の流れのように生きているのは秋元康なのではないか?

行く手 阻(はば)む River! River! River!
横たわる River!
運命の River! River! River!
試される River!

迷いは捨てるんだ!
根性を見せろよ!
ためらうな!

今すぐ
一歩 踏み出せよ! Believe yourself!

『RIVER』

諦めつつも、人生を決して諦めない。いつもここから。この瞬間が、奇跡だから。諦めたら試合終了だよ!現代は諦めつつも女性らしい感性でゆるーく滑稽に(だってお金ないし)、けして自分を諦めないということが大事なのだな、と思います。

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