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色褪せる記憶と共に

「愛」の反対は「憎しみ」ではなく「無関心」です
「マザーテレサの言葉」より

これはマザーテレサの言葉です。


困っている人や苦しんでいる人から目を背け、知らんふりするのは「愛」の対極にあるものだと。


じゃあ「好き」の反対も「嫌い」ではなく「無関心」なのかな?


多分「好き」も「嫌い」も関心を持っているのには違いはなくて、心が「正」に向くか「負」に向くかの違いはあるけど関心はあるんだ。
だって、どっちもちゃんと「心」が動いて、良くも悪くも頭の中を支配しているのだから。


だったら「無関心」はどうだろう?
関心が無いのだから、心が動くことはない。「好き」でも「嫌い」でもない、考えることもない、思い返すこともない・・・


人との関係もそうなのかな?


あれだけ好きだった人、仲の良かった友人、良くしてもらった恩人・・・
それらの人達も別れてしまえば、遠く離れてしまえば、時間が経ってしまえば全員「無関心」になる?


それは「違う」と明確に言える・・・少なくとも私は違う。


別れてしまっても、距離が離れていても、時間が経っていても、変わらず「好き」な人は大勢いるし、心の中に生き続けていて関心がなくなることはない。


「好き」でいるか「無関心」になるか、その分かれ目は「別れ際がどうだったか」「その人が今も尊敬できるかどうか」なんだと思う。


お互いを想って納得したうえで別れた、遠く離れた、時間が経過したのであれば、その人達の記憶は色褪いろあせることなくずっと好きでいられる。


でも、お互いにとって不本意な形で距離を置いた、尊敬できる存在ではなくなった人達の記憶は、時と共に急速に色褪いろあせて、関心事から外れていく。


そのスピードは別れた時の衝撃の大きさによって、加速度を増す。人の防衛本能の一つ・・・辛い哀しい記憶ほど、どんどん整理されていって、最後には関心事の「埒外らちがい」に追いやってしまう。


私はそれほどできた人間じゃない・・・「無関心」の世界に追いやった人達に対して、改めてなにか思いを巡らせることは二度とない。


冷たい人間だと思いますか?
でもそれが「私」という人間です。

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