文化人のモチベーション。

思うことがあって、今日は論文の日記としたい。 

 満足に食事をとることができた今日の私。
もちろん美味しく食べれたら、相応に眠くなるし
太りもするだろう。
これからまあスヤーァと居眠りもするかも。

 一説には、世に名高い文化人の人たちは、
相応に生みの苦しみを携えて、
解脱感覚で作品をつくるらしい、と聞いたことがある。

 あえて1例、不肖、自らの話をしたい。
文芸とは言わずとも、
大学時代の卒業論文の作成中、
或るヒトに小石ほどの恋をし敗れ去り、
期限間近のタイミングで精神ズタズタなことがあった。

 実家の傍にいたこともあり、
当時の支援者(まあ早く言うと親)は、
精神アウトの理由もわからず、
どうせならと留年を勧める、
まさに始末の悪い事柄を抱えていた。

でも、どうにかして卒論は期限当日に完成させた。
その努力は精神追い込みの中での生真面目さの追求で、
当時の自分なりには
MAXBETな時の過ごし方をしていたように思う。
でも、である。理由云々といっても、
論文の中身は小石にも満たない、
本当に薄っぺらな、
もともとの自身の描きたかったものとは似ても似つかぬ内容で
結果お涙頂戴的に通してもらったという、
全くお情けなさ過ぎな論文で卒業した。

 傍目から見て、というより
その後の社会人になったとき、
やんわりとした口調で、でもぐさりと周囲に言われたのは、
「なんだ、お前、その程度の論文(の卒業)だったのか笑」と。

 全く例えばではあるが、
文化人として、というより社会人としてかもしれないが、
千歳一遇のチャンスみたいな乗ってみたい風は、
人それぞれ吹くのかもしれないが、
私の場合は20代の経験を踏まえても、
どんな理由があろうとも、
やはり几帳面に、コツコツと積み重ねた内容が、
結果その後の文章・生活力につながるのだろうなと思うに至っている。

もちろん、
いろんな立ち位置で
その時その時で、
色々な作りこみ方はあって、
「多方面な可能性を認める」のも筋だが、
「定石を認める」のも別の意味で筋ではないかと思う。

周囲を見渡すと
類は友を呼ぶ、という通り
各々似たような環境を経験値とする人が集まっているのだろうが、
対2人称的な案じ方の際は、
より多方面な心配りで
結果1人称の成長にもつながるのかな、と思った次第。

まあ、なんとかなるさ<etc>の心掛けが
きっと明日の心配より、今日を生きる上で
より身軽で
(敵も作らない)素敵な毎日の源になるような気がする。

杞憂より真の優しさになればと思い一筆啓上します。

サポートにつきまして、ご一考いただいた上での参加、誠にありがとうございます。 サポート内容に対してより一層の記事・文面を作成し、精進してまいります。 今後ともよろしくお願いいたします。