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自己紹介 2022年5月バージョン

ブログに書いていたものをこちらに転記&少し更新しました。

概要

名前:Suni
生年月日:1979年3月10日
国籍:朝鮮→韓国
住所:マレーシアのクアラルンプール
生まれ:千葉県松戸市
職業:アジアのスタートアップで働いています。Sr. Project Manager, Certified Scrum Master, People & Cultuer Managerという仕事をしています。
趣味:家事を手抜きするためのあれこれ
家族:夫と息子(4歳)の3人家族

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自己紹介 Short version

日本生まれの在日朝鮮人として、自営業だけど(=「組織の人じゃない」と言いたい)北朝鮮にそれなりの忠誠心がある両親の元に生まれる。親の意向で小学校から高校まで朝鮮学校に通い、大学は日本の私大に、外国人枠の推薦で運良く合格。

職歴は富士通に4年半、ヤフーに5年弱、頓智ドットに2年強、ちょっとニートを挟み、フィリピンのKDDIで2年弱、現職YOYOは8年目。
インターネット好きが高じて、ニート期間を除きずっとIT/Web業界で働いています。

海外歴は、フィリピンで4年働き、夫の転職に伴って自分もマレーシアに移りました。コロナ前は、仕事でマニラとジャカルタにしょっちゅう行っていました。

自己紹介のLong version(北朝鮮で金日成に会った話とか)は、講演履歴や執筆履歴の下にどうぞ!

講演履歴

ー YOYO・Quipper・Wantedly共催イベント
「シリコンバレーはもう古い!? ~ アジアで働くエンジニアのオルタナティブな生き方」
(モデレーターとしての登壇)

当該イベントページ
ログミー


ー Schoolwit留学フェア 「フィリピン留学後のキャリアを語る!」

レアジョブさんによる講演記事
私が書いた事後談


ー セブポット主催海外就職イベント「これから海外で活躍したい女性へ、海外女子のライフ&ビジネススタイル」

当該イベントページ
参加した方が書いてくださったブログ


ー Visionaries Summit 2011
「ヤフーとセカイカメラによる東日本大震災写真保存記録プロジェクト」

当該イベントログ

執筆履歴


最近は、Medyで東南アジアECについて書かせていただいています。
週1更新。



自己紹介 Long version

ここから先はお時間がある方向けの…とてつもなく長い自己紹介です。


ー 幼稚園生の頃
まわりの友だちはみんな「さくらいゆりこ」「しむらゆういち」などと名前が6〜7文字もあるのに、自分だけ「かんすに」というたった4文字で、コンプレックスを覚える。小学校に入学して、理由を知る。


ー 小学校〜中学
親の方針で朝鮮学校に通う。学校で習ったことはそのまま鵜呑みするタイプで、「朝鮮半島は95年に統一する」とか「『南朝鮮』のことを『韓国』と呼んではいけません」なんてのをバカ正直に信じていた。
(今思うと気持ち悪いんだけど、当時は素直に信じてたんですよ!!)


ー 中3、北朝鮮に2ヶ月滞在して人生観が変わる
毎年大晦日に、北朝鮮の平壌で金日成主宰の正月公演(以下、ソルマジ)という「北朝鮮の津々浦々から選ばれた何かしらの芸に秀でた子どもたちが歌って踊るのを、金日成や党の幹部が見る宴」がある。1985年くらい?から在日枠みたいなのができて、日本中の朝鮮学校の生徒にもそこに出演チャンスが与えられた。と言っても、オーディションに参加できるのは学校の先生のご指名。「そこそこ学業優秀で、何かしら芸(舞踊とか歌とか楽器とか)が秀でていて、親が総連系の仕事している人」しか行けないという通説があった。
私の実家は親が総連系の仕事をしていない日陰のポジションなのでそういうのには無縁だと思っていたんだけど、先生にオーディションに参加するよう言われて「親が総連系じゃないから無理なんじゃ…っていうかなぜ私が?」と思いながらオーディションを受けたら、まさかの合格。北朝鮮に行けることになった。


ー そして北朝鮮
目的は「大晦日に、金日成の前で公演」。

1993年11月下旬、かの有名な万景峰92号という船に乗って、新潟から北朝鮮の「元山」という港に旅立つ。初めてのウリナラ。

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ドキュメンタリービデオのスクショ。
元山に着いて、船から降りたところ。
右端で楽器とバッグをゴロゴロ押しているのが私。

それまで「北朝鮮は世界で一番すごい国」と習ったのをそのまま信じていたのに、当時14才の少女だった私は元山について、「なんかちょっと違うかもな〜〜〜」という違和感を抱く。
元山のホテルで1泊して翌日平壌にバスで移動したんだけど、元山のホテルが「どこもかしこも電気が薄暗くてテンションダダ下がりな感じ」で、こんな国で2ヶ月生活するんだ〜と思ってちょっと気が遠くなる。

平壌での滞在先は当時国内トップクラスの、창광산(チャングワンサン)ホテル。Google Mapのリンクはこちら。ホテルで練習漬けの毎日を送る。あれ?勉強は?ほとんどしなかった気がする。

ある日、滞在中のホテルから家に電話して、「オモニ(お母さん)、なんかさー、ウリナラ(北朝鮮)って、ハッキョ(学校)で習ったことと違うんだけどどーゆーこと?」というような話をしたら実は盗聴されていたらしく、翌日、引率の先生から説教を食らう。この事件と、「信じてたウリナラと違う!」ということもあり、以来、信じてたものへの不信感が芽生える。

同世代の友だちと親元離れて暮らすのは楽しかったので、いい経験ができたとは思う。
それなりにハードな環境への耐性ついたしね。トイレの水が流れないとか、真冬なのにシャワーのお湯が出ないとか。
なので、日本からフィリピンやマレーシアなどの東南アジア新興国に引っ越した人がインフラについて文句を言っている話を聞くと、「北朝鮮よりはマシだよ!」といつも思うw

北朝鮮での話は、いつかそれ単体で書き残したいと思う。実家に、たぶん現地で書いた日記もまだあるはずだし。

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ー 朝鮮高校に進学
ソルマジに行くと、「北朝鮮のために忠誠を誓います!」みたいなマインドセットになる子が多いはずなんだけど私はうっすらと「なんかおかしくない?」と思っちゃったクチで、高校進学も朝鮮高校に進学したくなかったんだけど、親に「朝鮮高校行かないなら家を出てけ」と言われて家を出る勇気がなかったので泣く泣く進学する。
ただし、たまたま成績がよかったおかげで、「高校卒業後は日本の大学に行って、医者か弁護士にでもなれば?」と言われるようになる。
「日本の大学に進学してみようか」という新しい選択肢が生まれる。
(ちなみに「医者か弁護士」は、そこそこ勉強できる在日だったら必ず誰かに言われるセリフ)

学校の先生から「ソルマジ組はね、わかってるでしょ?将来は朝鮮大学校に行って、組織の仕事するか先生になってウリナラに貢献するのよね?」みたいな圧をかけられるたびに、「ソルマジ組全員がそれだったら組織は発展しない。だから私は日本の大学に進学して、日本社会に飛び出して、外から在日を支えたい」と適当なことを言って回避する。

とはいえ日本の大学に進学するのもハードルがいろいろある。私が通っていた朝鮮高校は日本の法律では各種学校扱い。今は違うかもしれないけど当時は日本の大学の受験資格がなかったからセンター試験も受けられない。
なので、朝鮮高校入学と同時に、大学受験を見据えて都立上野高校の通信制にも通い始める。いわゆるダブルスクール。夏休みには大検も受ける。今は「高卒認定資格」って名前だったかもしれない。大検はとても難しくて3年で取り切れず、推薦で私大を受ける方向に。そこに11月に合格が確定したので、上野高校もそのまま通わずじまい。


ー 制服がとにかくイヤだった
通学時にチマチョゴリを着るのがとにかくイヤで、家から学校の最寄り駅まではスカートとブラウスで、駅のトイレで着替えてた。
なんで女子生徒にだけあんな格好させるんだろう。だったら男子生徒も民族衣装着させるか、先生たちだって民族衣装で通勤すべきなんじゃないか?
朝鮮学校のよくわからない方針が大嫌いだった。


ー マクドナルドでバイトを始める
親がお小遣いをくれなくて、学校帰りに友だちとジュースを飲んだり駄菓子屋さんでちょっと食べたり、みたいなのができなくてツラかったので、学校に内緒でバイトを始める。マックを選んだ理由は「1日2時間からOK、時間も1周間単位で決められる」から。バイト始めるまでは「日本人怖いかもー差別されたらどうしよー」と思ってたけど、そんなことよりも生活に困ってた。だってお小遣いくれないんだもん。そうそう、学校で習ってたほど日本人は怖くなかった。朝鮮学校に対する不信感が益々募り、「絶対に日本の大学に行くぞ」と心を新たにする。

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写真は1995年の12月。バイト先のマクドナルド金町店で、子どもたち100人くらいあつめたクリスマスパーティをやったときのもの。STARという役職で、カウンターの子とは違う制服を着て働いてた。


ー 学校の世界史と塾の世界史が違う!
大学受験するつもり満々で、高2から塾に通い始める。河合塾。
ところが、朝鮮学校で習っていた世界史と塾の世界史が全然違うので、授業が意味不明すぎてショックを受ける。塾の先生に「習ってた歴史と違うから全然わかんない」と泣き言を言うと、「歴史なんて国のプロパガンダ。力のある国が言う歴史が『歴史』なんだよ。そういう意味で、両方の立場で物事を見れるのはいい経験かもしれない。ただし、受験のためには、大変だろうけど塾の世界史をがんばらなければいけない。」などと諭され、いろんな意味で悟りを得る。


ー 将来はシステムエンジニアが向いてるんじゃない?
物理の先生から、「あなたは理系脳だわね、システムエンジニアが向いてるんじゃない?」と言われ、その頃はパソコンは情報処理の授業で触るもの、としか思ってなかったんだけど、なんとなくパソコンを触る仕事に就きたいとぼんやり考え始める。


ー 推薦入試
「6大学受けようかな〜家からの距離考えたら明治か法政だよね〜」とぼんやり考えてたんだけど、親からいきなり「受験料は1校分しか出さない」と言われ、一般入試でそんなバクチ打ちたくないと思い、だったら…と推薦入学へ舵を切り替える。そして「実家から通える範囲で、朝鮮学校の生徒を推薦で受け入れてくれる学校」を探し始める。授業の休み時間に学校の外の公衆電話から大学に電話して聞いてみたり。ちなみに朝鮮高校の先生は受験には協力的ではなかった(今はどうか知らん)。
本当はSFCを受験したかったんだけど(先輩たちもかなりの確率で合格してたし)、SFCは家から片道4時間かかるし、通うのはさすがに無理、一人暮らしさせる余裕はウチにはない、じゃぁ仕方ないか、と「外国人推薦枠」がある「神奈川大学経済学部貿易学科」を受けることに。それでも片道2時間かかるんだけどね。担任には、「総連と朝鮮学校を、日本社会の立場から守れる人材になりたいんです」と言い繕ってなんとか内申書を書いてもらう。

推薦入試は英語、国語、論文、面接。難なくパス。
合格通知が封書で届いたので、「合格者の受験番号が貼りだされて自分の番号を必死に探す」という経験ができなかったのが心残り。


ー 大学
1997年4月から、晴れて大学生。
「いつでもどこでも日本語、周りはどこを見ても日本人ばかり、日本語しゃべっても怒られない!」という環境に若干戸惑うも、なんとか馴染む。
大学に片道2時間かけて通い、なのにあまり授業には出ずに、コンピュータールームに篭ってパソコンと戯れる。あげくのはてに情報処理の授業の補助員のバイトをやるようになる。ちなみに当時、学校のパソコンは教授の趣味でNEXT。普通の人に「Windows」と言われてもなんのことだかさっぱりわからなかった。
にも関わらず、就職するなら技術系の仕事だよな〜と本気で考え始める。裏には、「ITなら国籍で引っかかることはないだろう」という目論見がなかった訳ではない。必死にお金を貯めて、Gatewayのデスクトップパソコンを買った。


ー 就活
3年の秋、就活スタート。ギャグでテレビ局の総合職にアプライし、TBS日テレがESを通過。TBSは面接で落ちて、日テレは面接をパスして筆記試験に進むも、英語が難しくて全然解けずにまんまと落ち、世間の厳しさを知る。仕方なく就活に本腰を入れるようになる。
「外国人の方はお断り」みたいな経験も無きにしもあらずだけど、まぁ基本IT系ではそういうのはなかったかな。
3月にはサクッと生保系のシステム会社の内定をもらいつつ、 上場企業狙いでユルく就活を続け、最終的にはゼミの先輩が入社した会社の内定をもらう。


ー 1社目
SEの部署に配属され、流通系のお客さんを担当することに。
同期、仕事に恵まれ、忙しくも楽しく過ごす。と同時に「在日でも、ちゃんとやってれば普通にみんな認めてくれる」ということを知る。ウリハッキョの呪縛って怖いな、と思う。


ー 国籍を韓国に変える
「GO」の小説と映画に出会い、「広い世界を見ろ。そして自分で決めろ。」という言葉に感化され、国籍を韓国に変えようか真剣に考え始める。ちなみに親の存在がネック(親は国籍変えるの大反対)だったけど、韓国大使館に問い合わせたら「親が変えてなくても自分単体で変えられるし戸籍も作れる」と知り、最終的には親に内緒で変える。
ちなみに国籍変更だけなら3週間くらいであっけなく終わる。あっけなさすぎて実感がなかった。
就籍手続き&パスポート発行で半年くらいかかった。
パスポートを無事ゲットして、「これで世界の(ほぼ)どこにでも行ける」と号泣した。

「家族の中で自分だけ国籍が違う」っていうことがちょっとだけ不安だったけど、不便は特になかった。


ー 1社目…伝統的大企業でとても安定しているとは思ったけど…
せっかくシステム作っても、クライアントの会社の人にしか使ってもらえないのってなんだかなぁと思うようになり、また仲良くしていた同期が「うちいいよ!おいでよ!」と誘ってくれたので、転職することに。同期に恵まれたので、そのつながりはいつまでも大事にしたいと思った。
1社目の同期は、私が海外に出てからはしょっちゅうは会えなくなっちゃったけど、それでも一時帰国の際に飲み会してくれたり、私の住む国に会いに来てくれたり、FBでちょいちょいやりとりしたり、仲良かった人たちとはほそぼそと関係は続いています。


ー 2社目
2005年に、Web、もっと言うとブログの仕事がしたくてヤフーに転職し、無事ブログのチームに配属される。当時のYahoo!ブログはお客様からの評判は悪いし、社内でも「あんなクソサービスやめちまえ」「火中の栗を拾いに行くようなモンだねぇ」「貧乏くじひいたねぇ」と散々言われたけど、楽しかったのであまり気にせずにマイペースで働く。Web of the Year2007のブログ部門で1位を獲得し、ユーザー数、PVも順調に伸びていたおかげで、社内で少しずつ日向扱いになる。


ー 2社目…楽しかったんだけど…
無理して日本の私大に行かせてもらったので親孝行の意味も込めて『大企業で働かなきゃ』って思っていたのと(それもあって一社目二社目共に名前を言えばわかってもらえるような会社を選びました)、民族学校出身でも日本の大企業でのしあがってやるぜ、みたいな意地もあり(時代と共に人種差別は減っていることに気づき、この意地はだんだん薄れました)、ヤフーで働くのはとても楽しかったので、「長く続けるんだろうなぁ」とうっすらぼんやり思っていました。

が、

だんだん「日本ドメドメの仕事」に行き詰まりを感じて(インターネットの仕事なのに、仕事が日本国内ってちょっとなー、とか)、上司もどんどん転職していなくなって、私もうっかり予想外の部署に異動することになり(FA制度で違う部署にアプライしたんだけど、アプライした部署ではなく興味を持てない分野の部署に異動になった…)、ヤフーOBとの飲み会で「まったく興味ないサービスを担当してお客さんからお金を搾取するのはちょっとつらい」と泣き言を言ったところ、「じゃぁウチ来れば?」と言われて人生の岐路を迎える。あの異動がなかったら、私は今でもヤフーで働いているかもしれない。人生何が起こるかわからない。


ー 3社目
その「ウチ来れば?」の先輩が勤めている会社、頓智ドットに転職。プロマネ職での転職のはずが、入社日前日に「もうすでに一人、プロマネ職を採用しちゃったんだよね」と言われ、途方に暮れる。人が足りてないポジションってなんですか?と聞き、イメージ的に華やかそうな広報をやってみることになる。広報・マーケって向いてるかも、楽しいな、と思いつつ、2012年の頭からは営業もやることになる。

CEOが変わり、アメリカ西海岸のベンチャーっぽい会社がどんどん楽天みたいな日本ドメドメの会社になり、パワハラ・セクハラみたいなのもあり、給料がいきなり5万円も下がったり、 毎日夜中の2時3時まで働かされたりして、「なんかちょっとアレ」と思い始める。それに個人的に「勉強がしたい」という欲求もあったので、大学院進学を考え始める。目指すはアメリカかイギリス。何が必要だ?まずは英語だろ、ということで英会話にも通い始める。

仕事とは関係ないけど、会社を通じてしったIVSというイベントに、ボランティスタッフで関わるようになる。半年に一度自分を振り返る機会でもあり、「こんな若い優秀な人が多いなら日本も全然余裕じゃん」と思ったり、「逆に5年後10年後、この業界に自分の居場所がなくなるかも」なんてことも考えたりするようになる。


ー 過労
過労によるドクターストップのため、2012年10月に退職。
本当はドクターストップが出る直前に別の会社の最終面接も終わってたんだけど、状況が状況で医者からも止められたので最終結果が出る前にごめんなさいした。


ー ニート
夢が叶ってニートだよ〜〜〜✨
なんて呑気な日もあれば将来を憂えたりもしたねー。
大学院に行きたくて貯金を続けていたけど、ニートになって金輪際貯金もできないことになり、ものすごく悩んだ結果大学院進学は諦める。その変わり、「英語留学なら今の貯金でも全然余裕」と開き直って、11月にセブ、年明けて1、2月にロンドンにそれぞれ語学留学。

ロンドン行く前になんとなく予感があったのか、「いつかどうせ日本離れるだろうし」と車を売る。さよならした日はさすがに号泣した。

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ロンドン留学のついでに、クロアチア・ハンガリー・イタリア・アメリカ・メキシコ・キューバを旅する。ニート時代のいい思い出。


ー セブ再留学
4月下旬から6月中旬まで約2ヶ月。
最初の印象がよすぎたのか、2回目のセブはさほど新鮮なイメージはなく、就活するつもりで来てたこともありあまり遊ばずに真面目に過ごす。いや、適度に遊んでた。毎週マッサージ行ってたね。

6月に内定が出て、7月からフィリピンで働くことに。


ー 4社目
2013年7月からKDDIフィリピンで、SEという肩書で「なんでも屋」を。仕事内容を説明するときは『夏休み最終日のお母さん』とよく表現していた。
試用期間が終わった瞬間にリーダーに登用されて「なんて無茶ぶりな…」とも思ったけど、フィリピン人の部下を持つという経験もなかなかできないし、まぁなんとかなっていたと思う。
自分のキャリア的に「ずっとSIerではない」と思ってはいて、どうしようかな…と思っていた矢先に「やりたいことをやろう」と思う出来事があって、まぁぶっちゃけると「そろそろどうよ?」ってお声掛けいただいたこともあり、転職を決めた。

ー 5社目
2015年4月から、YOYO Holdingsというスタートアップで働いている。
「EMPOWER THE NEXT BILLION THROUGH DIGITAL MARKETING」というビジョンをかかげ、転職当時は、Androidスマートフォン向けのロックスクリーンアプリ「PopSlide」を、今は主に東南アジア最大級のインフルエンサープラットフォーム「PopStar」の開発・運営に注力している。


「インターネット」「スタートアップ」という環境が久々で、毎日がまるでジェットコースター。国際色豊かな環境で、様々な国の文化に触れつつ楽しく働いています。


私の仕事は、開発案件のプロジェクトマネージャーと、People and Culture Managerというお仕事。
開発のプロマネは、スケジュール管理、フォローアップ、調整、交渉、バグ出しなどなど、なんでもやるし、People and Culture Managerとしては、会社の組織開発、Job Graddや評価制度の策定と施行、OKRの導入、Corporate Cultureの醸造などをやっています。


2015年10月から開発プロセスにScrumを導入して以降はうっすらぼんやりScrum Master的な動き方をしていて、2016年9月にはCertified Scrum Masterという資格を取りました
(久々にめっちゃ勉強したよね)


ー そういえば結婚した
若い頃に当時付き合っていた人の親から、「息子が外国人と結婚するなんてありえない」と言われたことが2回もあるので日本人と結婚することなんか絶対にないと思ってたんですけど、まさかのまさか。ジャカルタで働いている日本人と結婚することになり、どっちがどっちに行く?とあれこれ検討した結果、相手がマニラに転職&移住する運びとなった。


ー そして別居婚
1年ほど新婚生活を送っていましたが、なんと夫がクアラルンプールで働くことになり、数ヶ月別居婚を送る。


ー 妊娠、マレーシアに引っ越し、出産
奇跡的に妊娠しまして、フィリピンとマレーシアどっちで産むか迷い、まぁ本当はBGCのSt. Lukesで産みたかったんですけれども、「夫と一緒に妊娠期間を過ごしたい」という思いもあり、泣く泣くマレーシアに引っ越し(仕事は継続)、土地勘のない場所で病院を探したりまぁとにかく大変でしたが、2018年1月に長男誕生😊
産褥アマさんを雇って新生児期にめっちゃ楽させてもらい、次の1ヶ月は昼間ワンオペで病みそうになりつつも、日本から母親が来てくれたり親切な友人に助けてもらったりしてなんとか乗り越えました。


ー 住み込みメイドを雇って復職
2ヶ月の産休を経て、2018年4月に復職しました。
4月は住み込みのメイドが間に合わなかったので息子は保育園に預け、5月からは住み込みのメイドに息子の面倒を見てもらいながら自分はなんとか仕事を続けています

メイドのおかげで、家事の負担がほぼゼロになり、復職後にすでに10回くらい海外出張に行ってるし、一度は息子とメイド同伴で海外出張したりもして、ものすごく助かっています。たまたまなんですけど、結果的に「住み込みメイドを雇える国」で働いててよかったとしみじみ思います。


ー そんな住み込みのメイドが突然いなくなった
詳しくはここに書きました。



そんな今日この頃です。
長い長い自己紹介、ご覧いただきありがとうございました。

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