話ができることーONE PIECEの魚人にふれてー

下等じゃない!対等だ!

この言葉は、ONE PIECEの「アーロンパーク編」を読んでいた時に、私がアーロンに返した言葉である。

この章では、麦わらの一味・航海士のナミの故郷・ココヤシ村が、魚人と呼ばれる民族の海賊、アーロンに支配されていた。逆らえば村ごと滅ぼすとい「恐怖」のもと。その見せしめとしてアーロンは、ナミのお母さんであるベルメールさんをナミの目の前で、殺している。

さて、魚人という言葉が出てきたが、私が話したいことに大きく関わってくるので、説明する。
魚人とは、体に魚の特徴を持つ民族で、魚と同じくえらがあるので、水中でも呼吸ができる。また水中を自由に泳ぐため、手に水かきがある。
ただ私たち人間と同じく、哺乳類である(アーロンも劇中で言っている)
この民族であるアーロンは、事あるごとに人間を「下等種族」と呼んでいた。それだけでも不快だが、読み始めた当初、よく分からないモヤモヤがあった。
それは、アーロンと人間は「普通に会話ができていたから」である。
この章の冒頭で、麦わらの一味・戦闘員のゾロとアーロンの会話があるが、普通に成立していた。そして村の人と、アーロンの会話も成立している。会話のキャッチボールができていたのである。とても円滑に。
だからずっと「話通じてるじゃん」と思ってモヤモヤしていた。
そして「人間」である、麦わらの一味・狙撃手のウソップに意表を突かれた際、思いっきり「下等種族が!」と叫んでいて、堪忍袋の緒が切れて、冒頭の言葉を叫んだ。
「言葉が通じてるのに、なんでそんな風に言われなきゃいけないの?」
と、この時にモヤモヤの正体がはっきりした。そう言われて、悲しかったのだと。
この章以降の「魚人島編」を読むと、こう言いたいのは魚人たちのほうだと思うが、何も知らなかった私はこう叫んだ。
「言葉が通じる」という事は会話ができる、話し合いができるという事だと思う。話ができたら、それぞれの好きなこと、嫌いなこと、文化や興味、価値観。色々なことを共有できるのではと思う。そしたら互いへの興味とか、関わらないという選択とか、仲良くしたいという意志とか、色々な感情が芽生えるのではないか。同じ人間同士でも難しく、衝突するのは分かっている。話ができるなら戦争も差別も起こらない。でも私は、話せるなら話したい。甘ったるいのは分かっているけど、話せないのはつらいから。

今は、魚人たちの歴史を聞いているから、軽々しく「対等」なんて言えないけど「言葉が通じるのに、区別するのはおかしい」と思った感覚は、これからも大切にしたいと思う。


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