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漫画みたいな毎日。「折ること、結ぶことは、祈り。」

若い頃、百貨店のお歳暮やお中元の包装のアルバイトをしたことがあった。贈り物が、包装紙で美しく包まれていく様子に癒やされた。

今でも、買い物先で、店員の方が真新しい包装紙を台の上に広げ、さも簡単な事の様に品物を包んでいく姿を見かけると、手元の動きの素早さ、丁寧さ、美しさに目を奪われる。

熟練しているからこそ、その動きは簡単に見えるのだ。

私が、その難しさを知ったのは、アルバイトで包装する為の練習をさせてもらった時だった。その際にベテランの方から、特に大事だというポイントを2つ教えていただいた。

①包装紙が、包む対象に合った大きさであること。
②包装台が滑り難いこと。

①については、包装紙の紙質によっても、包み易いか、そうでないかはあるのだが、包装紙の大きさは、包み易さをかなり左右する。

それでも熟練した方は、たとえ大き過ぎる包装紙だとしても、端を上手く折り畳みながら、美しく仕上げていく。

②の包装台については、台が滑る材質だと、品物をしっかり包み込む時に滑ってズレてしまう。紙質もツルツルしていたら、さらに包みにくい。

上手く包む事が出来ない私は、自宅に帰ってからも様々な大きさの箱を集め、包む練習をした。何度練習しても、お客様の前で包装する時は、いつでも緊張していた覚えがある。

この事を思い出したのは、昨日、本の修繕をしている時、夫が、「本の修繕もそうだけどさ、何かを包んだり、折ったり、結ぶことも、祈りだよね。」と口にしたからだ。

〈包む〉という行為にどうしてこんなにも癒やされるのだろう?と気になり、〈包む〉の起源を調べてみた。

金品を包む折形は礼法の一つとして、古くは平安時代のころから朝廷の儀礼儀式や贈答儀礼などに公家礼法として継承されてきました。武士が権力を持ち始めると、格式ある武家の教養(武家礼法)として取り入れられ、折形(おりがた、おりかた)、折方、折紙礼法などと呼ばれ、和紙を用いるものとして確立しました。

江戸時代に入り、多様な和紙が普及すると町人の女性や子どもの間でも折形や折り紙が盛んになったため、儀礼儀式に用いる折形と、玩具・遊びとしての折り紙が区別されるようになりました。その後も庶民の生活では、冠婚葬祭の赤飯や餅を配るときなどに、ごま塩やきな粉を紙で折り包んで添えるといった使い方をごく普通にしていました。昭和初期までは女学校でこうした「折形」の授業があり、各家庭で必要なときに自分で作っていました。昭和40年代までは都内でも、主婦が内職で祝儀袋などを作っているのを見た記憶があります。

NIKEEI STYLEより

ご祝儀やお香典などを包むこと、さらには、水引きの結び方の意味など、それらの根底にあるのは、お祝いやお悔やみである以上に、相手への心遣なのかもしれない。身近な人の喜びごとを共に喜ぶ気持ち、悲しみごとに寄り添う気持ちをこめて包んだり、結んだりする。

折ること、結ぶことを調べる中に、一人の女性が思い浮かんだ。

佐藤初女さんである。

佐藤 初女(さとう はつめ、1921年10月3日 - 2016年2月1日[1])は、日本の福祉活動家、教育者。1992年より青森県の岩木山山麓に「森のイスキア」と称する悩みや問題を抱え込んだ人たちを受け入れ、痛みを分かち合う癒しの場を主宰。それ以前は弘前市内で自宅を開放して同様の活動をしており、こちらは「弘前イスキア」と呼ばれていた。素朴な素材の味をそのままに頂く食の見直しにより、からだから心の問題も改善していくことができると訴えた。「イスキア」とは、イタリア西南部のナポリ湾の西に浮かぶイスキア島の名前から採られたもの。ナポリの富豪の息子で、何不自由ない暮らしをしていた青年が、この島を訪れて、贅沢三昧の生活から、自分を静かに振り返ることを学び、そこの司祭館に滞在したというエピソードから借用されたものである。佐藤自身もカトリックの信者だった。

Wikipediaより

私が佐藤初女さんを知ったのは、20代の初めだった。

愛読していた「クーヨン」という雑誌で、初女さんがおむすびを作ってらっしゃる姿を見た時、とても静かに、「私がずっと探していたものはこれだ。」と思った。

その後、映画ガイアシンフォニーで、初女さんの暮らし方、生き方を拝見することができ、何度もこの映画を観るために映画館に足を運んだ。
このことが、その後、私が、おむすび屋を開店することになることのきっかけとなるのだが、それはまた書き改めたいと思う。

初女さんがおっしゃっていたこと。

「〈動の祈り〉は、生活そのものだと思います。生活している時の動作のすべてが、祈りにつながっていると考えて毎日を過ごすと、生活の中の些細な出来事にも、向き合う自分の姿勢が変わってきます。」

紙を折ることも、
水引きを結ぶことも、
おむすびをむすぶことも、
本を繕うことも、
何かを包むことも、
料理をすることも、
子どもの髪を結うことも、
生活の中における〈祈り〉。

そして、生活そのものが、〈祈り〉なのだと思う。

私は、自分でも知らないうちに、「祈り」というものに、心惹かれ、癒やされていたのだ。

私は、無宗教だ。

祈りとは、宗教の有無に関わらないと思っている。

祈りとは、すべての人の根底にあるものではないだろうか。

人々の行動の中に多くの「祈り」が込められいるのだとすれば、
まだまだ世の中は、世界は、捨てたものではないのだと思う。

子どもたちの、私たちすべての人間の、その行く先を心配し過ぎることなく、今日も、何気ない日々を、祈りと共に、過ごしていこうと思っている。





学校に行かない選択をしたこどもたちのさらなる選択肢のため&サポートしてくれた方も私たちも、めぐりめぐって、お互いが幸せになる遣い方したいと思います!