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漫画みたいな毎日。「急がば回れ、光の差す方へ!」

人の相談にのるという類のことは、得意ではありません。

話を聴くのは嫌いではないし、「自分の身に起きたなら、私はどうするだろうなぁ・・・。」と考えを巡らせたりしますが、自分の中での答えはそれなりに出ることがあったとしても、誰かの悩みに対しての答えを持っていません。

相手も、それを求めてはいない事が大半でしょうから、まぁ、それほど構える必要はないのかもしれません。

その様に思い至ったのは、知人から「自分が関わる子育てのコミュニティの人々の意識の流れを変えたい。」という話を持ちかけられたからでした。

知人が、コミュニティに集う方々の意識を変えたい!という、その行動力は素晴らしいなぁ、と思うのです。

ただ、その話を聴いた時、〈それは、すぐにどうこうするのは、なかなか難しいかもしれないなぁ。〉というのが、私の率直な思いでした。

どんなコミュニティでも、多様なバックグラウンドを背負った人が集まり、感じ方も、思考も様々です。仕事でも、生き方の選択でも、その人の価値観は反映されると思います。そこに、「子育て」というキーワードが絡んだ時にはハッキリいって、もう、お手上げ!となるケースは少なくない。


私は、「子育て」と「食」に関わる仕事をしてきました。保育士として。そして玄米のおむすび屋として。「食の選択」も、その人それぞれの価値観が強く反映されることが多く、誰もが何かしらを口にし、生命を維持している事からも、意識している、していないに関わらず、命と関わる深いテーマだと感じています。だからこそ、「多様」なのですが、その「違い」を感じたときに、様々な感情が沸き起こることがあります。

このことは、また別の機会に書いてみたいと思います。

今日は、「子育て」の価値観について、私が経験し感じてきたことを書いてみようと思います。

「子育て」は、その人の「根底の価値観」が色濃く現れる。その価値観を覆すことは、場合によっては、「自分の生き方を否定された」と感じてしまうことがあると思います。

保育士として働いていた時にも、そのような場面に遭遇することが多々ありました。

保育者が保護者の方に何気なく言ったアドバイスが、受け取り側に届く時には、相手を傷付けるものとなっている。

それが、一見、正しく聞こえれば、聞こえるほど、相手を傷付けるケースを、何度となく見てきました。その度に私は、こう感じるのでした。

「育児に関する概念は、人生観でもあるのだ。」と。そして、「保育観は、人生観の反映である」と感じる場面にも何度も遭遇しました。


「子育て」と一言で表現する事柄も、その中には、その人の育ってきた環境、親との関係、家族の在り方、これまで社会で経験してきたこと、暮らし方、妊娠・出産に至るまでの過程、今の家族の形態、夫婦関係、自分の遺伝子を受け継ぐ存在を如何に守り育てるか。子どもの成長に伴って感じる、戸惑い、迷い、違和感、そして、喜び・・・。

それらをすべて内包している可能性が高いと思うのです。

人によって、どのキーワードに違和感を感じ、引っかかりを覚えるかは、それまで経験してきた事によって様々だと思います。

だからこそ、〈自分以外の人の子育てに関しての発言は、どれだけ関係性が出来ている間柄であっても、慎重にあるべき〉と思ってきましたし、今も、そう思っています。


やや話が逸れてしまいました。


コミュニティの意識を変えたいと願う知人の話を聞きながら、もうひとつ思ったことは、〈人は、変わるものであり、変わらないものでもある。〉ということです。


人は、自分自身の意思決定によってのみ、変わる方向へとシフトしていくのだと思うのですが、「変わる」と〈自分自身で決定する〉までには、それなりに段階が必要になると思うのです。


変わらない→変わる


この間の「→」の過程には、物凄く個人差があると思います。


なだらかな道が続いている過程もあれば、階段の様にどんどんステージを変えていく場合も、崖を登るかのような過酷な道であることもあるでしょう。

変化とは、「急に変わる」ということではなく、様々な過程を経て、結果として、「いつの間にか、変わっていた」ということではないでしょうか。

急激な変化は、一過性であることと、揺り戻しが大きくなる可能性があると思います。一時的には、「変わった!」と思うのですが、また引き戻される力が強く働く。

きっかけが何かあるにしても、変化は、本人の意志によってのみ始まると思うのです。

自分で決めること。

そして、目の前のことを、ひとつひとつ、やっていくこと。

それが、「変わらない→変わる」の「→」の部分にたくさん含まれている。


この過程がいつ始まって、いつ終わっていくのか、それは誰にも予測がつかないものです。

永遠に終わらないかもしれない。

明日にも終わるのかもしれない。

そんな中でも、向かっている方向に光が差し込んでいるのであれば、まどろっこしいと感じても、遠回りだと感じても、目の前のことだけをやっていく。

淡々と

静かに

光の方へと向かって

自分が今、できることをしていく。

誰かを変えることを意識するよりも、自分のできることを淡々とやっていく。

その姿が、誰かが変わるきっかけになることもきっとあると思うのです。

そして、淡々と積み重ねた事が、大きな変化を結果的にもたらすこともある。

実は、この過程が、遠回りに見えて、一番の近道なのかもしれない。

私にはそう思えるのです。

急がば回れ、光の差す方へ!









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