エスカレーター


最寄駅のエスカレーター。

登りエスカレーターでたまたま前になった女性がいた。歳は40代くらい。買い物袋を片手にTシャツにジーパンというラフな出立ち。

その日常感とは真逆な真っ白な腕に目が行った。職業柄、腕の血管に目がいってしまう。

だいぶ曲がってて細そうで。ラインを取る(針を刺して点滴薬の投与経路を作ること)の、難しそうだな。

そんなことを考えながら。この人はどんな日常を送っているのだろう。ふと思う。

でも、歳の頃から考えて何かしらの持病があってもおかしくない。いや、気づかないうちに蝕まれてるかもしれない。何かしらの体内の奇形があるかもしれない。

それらが暴発、悪化したなら。この人の日常はどう変わるのだろうか。エスカレーターに自分で立って乗ることはできるのだろうか。夕食の献立をあれこれ思案し、買い物に行き、誰かのために作り、文句を言われては喧嘩になる。そんな日常が失われるかもしれない。


日々、たくさんの機械に囲まれて眠る患者をみていると。その人たちに当たり前に過ぎていった日常があったなんてことを想像すらできなくなる。


カルテ上には「料理中に倒れ家族が救急要請」とか「〇〇で買い物中に卒倒し救急搬送」とか。文字の羅列で、ほんの一端が語られるだけだ。


呼吸や心臓の動きを機械に依存し、薬で眠る目の前の患者の日常に思いを巡らすのは至難の業だと感じる。


ヒトとして見ていても人間として見られなくなっているのではないだろうか。漠然とした不安感に襲われる。


後輩と笑いながら「看護師になって年数経つと心が黒くなるよね」と話したけど。患者の苦痛や不安に鈍感になり、感情が失われていっている感覚になる。他人への関心がどんどん失われていっている感覚になる。


そんな自分が。たまたまエスカレーターで目の前に立った、赤の他人の女性の日常生活を考えていることに驚く。ああ、まだこんな関心や感覚が残ってたんだ。束の間の安心感をもつ。

今晩の夕飯はなんですか。一緒に食べる人が無事に家に帰ってくる当たり前の日常の中で。キッチンに立ち、夕食を作る姿に重ねながら。駅の反対側の降り口へ向かっていくその女性の後ろ姿に向かって心の中で呟き、そして横目で見送る。


改札に向かう。ホームに降るエスカレーターに乗る。


さあ、夜勤だ。気持ちを切り替える。


たとえ日常を想像できなくても。1人でも多くの人たちが日常生活に復帰できるよう全力を尽くす。




だて





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