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お金と価値と循環について考えていること


最近、お金と、お金を介さない生活について考えていることを、ちょっと整理しながら言語化してみたいと思います。

田舎暮らしをしていると、育てた野菜やお花や山菜をもらうことがあります。
そうすると、私も自分が作ったジャムやなんかをお返しします。

「ウチで育てたジャガイモ掘ったけど、アユミさん(ジャガイモ)いる?」
「ジャガイモないよ」
「じゃあ、持ってくよ」
「ありがとう。ねえ、ジャム作ったの良かったら持ってて」
「ありがとう、じゃあもらってくね」

みたいなやり取りしてます。
ウチにない物と、ウチにある物を交換し合う循環があります。

物々交換する時は、金額でこのくらいってことはなくて、あげたい気持ちや、
「ちょっと余ってるからもらってよ」とか、いつも気にかけてくれていて、お世話になってるからお返しに、ていう感謝の気持ちやお互いの気持ちで成り立っています。


知り合いに農家さんがいので、出荷できない規格外の余った野菜を農家さんのタイミングで「取りにおいでよ」って分けてくれます。

出荷する条件から外れた、形や大きさがハネダシモノでお金にならない作物でも、味は美味しいのです。でも、そういう農作物は基本は廃棄するのだそうです。

農家のお友だちは

「『お金にならないから』と自分たちが汗水流して苗から育てた作物を捨てるのって、
胸が痛いんだよ。だから本当は食べてもらいたいんのだよ」と言って分けてくれます。

お金にならない物は捨てて構わないって考えじゃなくて、愛情持って育てた作物を分けてくれるんだなぁと、私は聞いていて、じいいんと感動します。

中には「生業にしてる物だからもらいっぱなしも気が引けちゃうから」と、お金を受け取ってくれた方が気持ちが落ち着くって言う方もいるそうで、そういう時は、その人の気持ちを考慮して少しお金を頂くこともあると言ってました。



お互い様でなってるものだから、お金が介在する方がスマートな時もあれば、お金じゃない方が互いに気持ちが良い時もあって、そのあたりが微妙っちゃ微妙ではあります。

なんだけど

「これをあげたから、これをもらう」って言う損得勘定でもなく
「いかにお金をもらうか」というのでもなく、
お金が無くても成り立つ、お互いに分けあう対等な、相互関係

があると、良いなと思う。
お金の価値だけでない、互いの価値観の交換ができる関係性がnoteの外の世界にもあると良いなあ。

私は「お金を生産できなくたって、価値があるんだぞ」ってことが言いたいのかな?



競争や批判が減って、お金が無くて社会的に弱い立場の人も、人の権利や尊厳が守られて、みんなが分かち合うとか、認め合えるつながりを構築する考え方が、社会にもっと増えたら良いなって思ってる。



とっ散らかって、まとまってなくて、なんだか申し訳ないです。
けど最後まで読んでくださってありがとうございます。



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