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特別支援教育的視点をもって何をする?

発達障害という捏造診断

発達障害というものが、精神科医の作ったまやかしとするのなら、特別支援教育を担う教職員はどう生徒に向き合えばいいのだろうか。

教員はクラスで悪目立ちする生徒に目をつけて、流行りの診断名を勝手にラベリングする。そしてケース会にかけて、発達障害が疑われるので、教育委員会の相談チームに相談し、家庭には医療とつながるように勧める。そうすることを多くの教員は悪いことだとは思っていない。むしろ最善の手立てを打ったと喜ぶ。

しかし、その後生徒はどうなるのか。
医療につながれば何かしらの診断がつけられる。そうすれば治療が始まり、薬漬けにされる。ただのあわてんぼうさんが、ジャンキーになる。

あわてんぼうだけでない。頑固者も、〇〇にとても詳しい人も、人付き合いが少し苦手な人も、一人が好きな人も、ガキ大将になりたくて威張ってるやつも、全員発達障害のレッテルを張られてジャンキーになる。


発達障害という診断はどのようにしてつけられるのか

ガンであればMRIなどを撮って、ガン細胞そのものを見つける。骨折なら折れた骨を、インフルエンザならウイルスを見つける。
では、発達障害はどうだろうか。ホルモンが、、とか、受容体を、、、とか、脳神経が、、、などと言われているが、病院でそれらを調べられたことがあるだろうか。医者の主観や、場面を切り取った親の主観で診断される。WISCなどの検査をされることもあるだろうが、それが障害の根拠にはならない。
主観が診断の大半を占めているのが実際だ。


特別支援教育に携わる教員の役割

教員の仕事は発達障害の診断をすることでも、予想することでもない。いろいろな人間がいることを理解させて、多様性の中で自分の軸をもちながら生きていく考え方を教えることだと思う。
どうしても排除的な考え方が日本の学校教育にはあって、いじめが起きても、保護すると称して被害者を教室から排除する。ちょっかいを出されて反撃したやつを排除する。
ぜひ排除しなくてもいい方法を選択したいものである。
そのために教員がいて、普段の様子をよく見て、愛してあげることが必要なのではないだろうか。社会毒や毒親によって毒された子どもの毒を抜けるのは親と教員だと信じている。

愛するとか抽象的な言葉になってしまったが、本当に現代の子どもたちには愛が足りないのだと思う。

どんな子も世界の宝である。そのことを忘れずに子どもたちと向き合っていきたい。

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