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科学哲学講義メモ 第一章

これは僕がAudibleで聴いた科学哲学の講義について適当にメモをまとめていくという試みの一部です。前回は序章。今回は第一章。


科学とニセモノの境界をポパーに学ぶ

科学的だね…と言うとき、どんなことを想像しますか?あなたにとって、星占いは科学ですか?じゃあマイナスイオンは?

他の分野に比べて、科学が持っている特別なステータスを解き明かす上で、どこまでが科学やねん?というのを考えるのは重要なことです。今回は、科学とニセモノを判別するときに「証拠があるかどうかはあんま重要じゃない!」という、とんでもないことを言いだした、ポパーさんというひとの話をしていきましょう。

アインシュタイン!マルクス!アドラー!科学最高!

オーストリア出身のカール・ポパーさんは1902年の生まれ。世界がどんどん進歩してる!とみんなが感じている時代です。そして科学こそが、その進歩の象徴でした。たとえば、アインシュタインの相対性理論。マルクスの共産主義。アドラーの個人心理学。どれもが古い常識を打ち砕くもので、当時はいろんなひとからそれらの考え方は「科学的だなあ」と思われているものでした。理論や仮説、そして証拠がセットになっている。

いや、マルクスとアドラーは別に科学ではなかったわ

でもポパーは気づきます。共産主義のマルクスは、革命についての予測を外しまくってるけど、なんか後付けでいろいろ言い訳してる!アドラーの個人心理学は、どんな症例があらわれても、同じような理論を適当に当てはめてるし、同じ症例から全然別の結論を導いたりしてる!これらと、アインシュタインを一緒にしちゃだめなんじゃない?本当に科学と言えるものと、科学のフリをしているものがあるんじゃない?という気づき。

理論を裏付ける証拠があっても微妙なもんは微妙

たとえば占いで「今日いいことあるよ」と言われたあとに、横断歩道が全部青信号だったからといって、宝くじがあたったからといって、それを証拠に占いを科学だ!とは言えないよね、というのがポパーさんの主張です。頭がいいひとなら、どんな現象を前にしても、「な?だから俺の仮説はあたってんだよ」みたいなコジツケができちゃうじゃん…証拠なんていくらあってもほぼ無意味なんや!という問題意識をポパーさんは持つに至ります。

めっちゃ否定される余地があるのが格好いい

証拠を集めることだけなら、科学のニセモノにもできちゃう。だからご立派な仮説、正しそうな理論、そんなもんは意味がない!と喝破したポパーさんは、「仮説や理論の誤りを証明する可能性を持っていること」こそ科学なんだよ!と主張します。反証可能性、と言われる概念です。科学というものは「キミの仮説は、こんな証拠があったらボロボロに崩れますよね?」というイジワルな視点に耐え続けることで行われる営みなのだ!これこそ、科学にあって、ほかにないものだ!という具合ですね。

反証可能性がある例としてのアインシュタインの仮説

ポパーさんの時代に、アインシュタインは「光が重力によって曲がるはず」という奇抜な仮説を立てました。光は直進するものであって、曲がったりしない!というのが常識でした。それなのに「太陽の重力でも、光は曲がったりするんよ」と言い張るアインシュタイン。これはニュートンの時代から続く世界観を否定する、大胆な仮説です。この仮説を確認もしくは否定するために、日食のときに星の位置を確認するという実験が提案されました。

そして1919年、イギリスのエディントン氏がアフリカのプリンシペ島まで遠征して、皆既日食の中で観測を行います。
結果は、驚くべきことに、アインシュタインの仮説の通りでした。星の位置が、ズレて観測されたのです。多くの人たちは「アインシュタインの仮説を正しいとする証拠がみつかった!!」と喜ぶ結果となりました。

当時の新聞や雑誌でも取り上げられた

しかしポパーにとっては、証拠が見つかったこと自体よりも「アインシュタインの仮説ってさ、星の位置がズレずに観測されたらボロボロに否定されてたはずじゃん」ということが重要でした。否定される可能性が大いにある、大胆な仮説を立てることができたこと。それこそが、アインシュタインの科学者としての格好良さだったわけです。そういう、ある意味"危うい"仮説を立ててこそ、合致する観測結果を得られたことに意味があるわけですね。

反証可能性がない例としての血液型占い

ここで、血液型占いが科学的じゃないよね、という話を少し考えてみましょう。血液型占いに出てくる有名な仮説のひとつとして、「AB型のひとは天才肌」というものがあります。「太宰治はAB型だった!本田圭佑もそう。星野源もだよ!あと兄の友達の吉田くんも天才だしAB型です。」など、証拠はいくらでも集めることができそうです。しかし、これらはポパーの視点からするとあまり意味がありませんね。

問題は、「AB型天才説を否定する証拠は、ありえるか?」という問いかけになります。どうでしょう、たとえば「ネプチューン名倉さんはAB型なんだけど、天才肌というよりは努力家だよね。僕の友達に河村っていう天才がいるんだけど、O型だったな。逆に、日野はAB型なんだけど天才肌とはかけ離れてるよ」とか言ったとしましょう。ここで、「まあ…ほら、例外もあるからさあ」と誤魔化されてしまうようでは、AB型天才説は反証可能性があるとは言えないわけです。科学的でない。

ポパー的、反証可能性による科学的かどうかの判断まとめ

  1. 相手が持ち出してくる「◯◯って証拠があるんよ!」は無視

  2. 相手に「どんな証拠があればその仮説は否定されるの?」と聞く

  3. そこで明確な「◇◇って証拠が出たらかな」を示せたら、科学的!
    (その否定するための証拠の出しやすさ・確かめやすさがが重要)

科学的でないものにも大事なことはある

ここで忘れないようにしたいのは、科学的でないからといって無意味だとは限らないよ!ということです。ポパーは、マルクスもアドラーも重要なことや真実を言ってる部分はある、としています。ただ、それを科学と捉えるのは違うよね?と言ってるだけで。科学というのは、厳しい反証の視点に耐え続けるものにだけ与えられる、特別なステータス。でもだからといって、その視点に耐えられないものが価値を失うわけではないよ、という話ですね。

反証可能性は別に万能じゃないですという批判

さて、ポパーの考え方は使いやすくて、エレガントで、科学と科学っぽいものの線引きをするのに便利そうでした。しかし、これが科学自体を定義できるツールではないことはすぐに明らかになります。

たとえば、「太陽系のどこかに、完全な球体が最低ひとつは存在しているはずだ」という主張を反証するにはどうすればよいでしょう?太陽系のすべてをつぶさにシラミツブシしていかないと、反証することはできません。しかし、この類の主張は科学にとってよく出くわす主張のように思います。さらには、確率的に表現されるものや、時間が絡んでくる仮説はもっと扱いが困難です。「水辺の生物は、水かきという器官を会得するよう進化しやすい傾向がある」とうような主張は、どうすれば反証できるでしょうか。

また、理論や仮説の立て方それ自体が科学的/ニセモノ的であるのか、それとも理論や仮説に対するアプローチの仕方が科学的/ニセモノ的なのか…なんていう視点も出てきます。「うまい棒はたこ焼き味が一番美味しい」という仮説でも科学的にアプローチすることはできる気がしますし、「この種類の病気に対してはワクチンが有効であるはずだ」という仮説に対する非科学的なアプローチというのも有り得るように思います。

そんなわけで。いまでもこの「反証可能性」こそ科学かどうかの分水嶺だ!と考えるひとは多いんですが…それが科学哲学の世界ではあまり受け入れられていないこと、そして結局まだ科学とそうでないものの区別というのはいい感じの答えが出ていないことを、次の講義メモで改めてまとめていきたいと思います。

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